政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

あなたの全部を、私だけが知っていたい

「……今日は、仕事しないの?」

咲がキッチンで湯気の立つカップを手に戻ってくると、リビングのソファにいる尚紀が、珍しくスマホを放って天井を見上げていた。

「休んだ。午前も午後も、全部オフ」

「え……?」

「お前と一日一緒にいたくて、全部蹴った。ダメ?」

咲は笑いながら、隣に腰を下ろした。

「ぜいたくだなって思っただけ。でも、うれしい」

「ぜいたくじゃない。“当たり前”にしたい。もう誰にも邪魔されずに、咲とだけ過ごせる時間を」

その言葉に、咲の胸がじんと熱くなる。

(……こんなふうに、誰かに“選ばれる”って、こんなにあたたかいことなんだ)

尚紀は咲の髪を指ですくい、耳元にかき寄せながら囁いた。

「……ねえ、咲。お前さ、自分がどれだけ俺を焦らしてきたかわかってる?」

「え……?」

「最初からずっと触れたかったのに、“距離を保ちます”みたいな顔して、こっちばっか我慢させて」

「そ、それは……!私なりに気を使ってたというか……!」

「知ってるよ。でももう終わり。そういうの」

咲が見上げると、尚紀の瞳は真っ直ぐに彼女を射抜いていた。

「もう我慢しない。“妻”として、お前の全部をもらいたい」

咲の顔が、ふわっと赤くなる。

「そんな……急にスイッチ入れないでよ……」

「じゃあ、ゆっくりいく?」

「……あ、あの……私……」

「無理はさせない。でも、これだけは言わせて」

尚紀は咲の頬を両手で包み、優しく言った。

「咲。君が“俺の名前”を呼ぶたび、俺は君を抱きしめたくなるんだ」

「……尚紀さん……」

「君の声、仕草、表情、全部が俺のものになっていくのが、幸せでたまらない」

咲は頷くこともできず、ただ目を伏せた。

けれど次の瞬間、尚紀の指先が彼女の顎をそっと持ち上げる。

「目、そらすな。……俺だけを見て」

ゆっくりと唇が重なった。

初めてではないはずなのに、どこか新しくて、深い。

触れた瞬間から、心がすとんと重なった。

(ああ、好き……)

(この人と出会えてよかった。ずっと、そばにいたい)

その後。

ふたりはしばらく、部屋着のままソファに寄り添い、膝の上に咲がすっぽり収まるように抱き合っていた。

「……こんな風に、誰かと一緒にいて“落ち着く”って思える日が来るなんて、思わなかった」

咲がぽつりとこぼすと、尚紀は彼女の髪に唇を落とした。

「俺はずっと思ってた。咲が来てから、この家が“生き返った”って」

「そんな……大げさな」

「本当だよ。君が朝キッチンに立ってるだけで、空気が違う。“あ、帰ってきた”って、そう思うんだ」

咲はそっと尚紀の胸元に顔を埋める。

「……こんなに安心できるの、あなたが初めて」

「俺も」

尚紀は咲の指をとって、薬指に唇を当てた。

「この指に指輪をはめたとき、俺の人生が変わったって思った」

「……尚紀さん、今日は甘すぎる」

「ダメ?」

「……うれしいけど」

咲は、恥ずかしさをごまかすようにぎゅっと抱きついた。

「じゃあ……もう少しだけ、甘えてもいい?」

「むしろ、もっとして?」

尚紀の声は、どこまでも優しくて、心地よかった。

その夜。

ふたりは食事も手抜きで、デリバリーのピザを分け合いながら、ソファにごろごろと寄り添い続けた。

「……家も、家族も、立場も、全部片づいた」

「うん。私たち、ようやく“普通の夫婦”になれたのかもね」

「いや」

尚紀は咲をじっと見つめて、ふっと笑う。

「俺たちは普通じゃない。“特別”だよ」

咲は、少し頬を染めながら、そっと尚紀の胸に顔を寄せた。

(この人の隣で、生きていきたい)

(どんな未来が来ても——)

(もう、絶対に離れたくない)



けれどその“幸福な時間”のすぐ裏で。

静かに、しかし確実に、“過去の火種”がくすぶっていた。

ある男が一枚の書類を手に、静かに笑う。

「なるほど……尚紀、あの子……“朝比奈の血”じゃないんだな」

かすれた声が、深い闇の中で響いた。

「正統な後継者ではないとなれば、社を動かす大義名分になる」

静かに火が灯る。

それは、愛を壊すために再び現れる——

復讐の影だった。
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