政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

その血筋に、価値はないと誰が決めた?

「——尚紀は、“朝比奈の血”を引いていないんですのよ」

義母・美鶴は、革張りの椅子に優雅に腰を下ろしたまま、静かに言い放った。

会話の相手は、朝比奈ホールディングスの取締役のひとり、椎名。

「……なるほど。それがあなたの切り札ですか」

「ええ。彼は、あくまで連れ子。生物学的には朝比奈家とは無関係。つまり、“家の継承者”としての正統性はない」

「しかし、現社長としての手腕は確かでしょう。これまで会社を安定させ——」

「そこに“血筋”の問題が加わったら?」

美鶴はカップを静かに置いた。

「あなたたちが守ろうとしている“朝比奈”という家名。それを継ぐのにふさわしいのは、果たして誰なのか。……その議論の余地が、ようやく生まれたということ」

椎名は沈黙したまま、資料をめくった。

そこには尚紀の“出生に関する調査書”が綴じられていた。

(この女……どこまで仕込んでいる?)

その翌日。

尚紀は、社内で密かに回されている“ある文書”の存在を知った。

《現社長に関する血統上の問題と、それが与える会社イメージへの影響について》

名指しこそ避けているものの、その内容は明らかに“尚紀の解任”を示唆していた。

(……来たな)

デスクに戻った尚紀の表情は、冷静だった。

「尚紀様」

秘書の佐伯が、慎重に声をかける。

「先ほど、椎名取締役と数名が非公式に“臨時取締役会”の招集を検討しているとの情報が入りました」

「理由は?」

「……“社長の血統的立場に対する株主の懸念”です」

「……まさか、こんなタイミングで仕掛けてくるとはな」

尚紀は、咲の顔を思い浮かべた。

(……あいつか。義母、美鶴)

(今度は、“俺”を潰しに来たのか)

その夜。

尚紀が帰宅すると、咲はいつも通り玄関に出迎えた。だが、彼の表情を見てすぐに違和感を覚えた。

「……何かあった?」

「咲、話がある。ちゃんと聞いてほしい」

ふたりはリビングのソファに並んで座った。

尚紀はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「俺……“朝比奈の血”を引いていない」

「……え?」

咲は、一瞬言葉の意味が理解できなかった。

尚紀は、落ち着いた声で話し始めた。

「俺の母は、もともと一人で俺を育ててた。つまり、俺は“母の連れ子”。朝比奈の名前は、母が再婚したあとについたものなんだ」

咲の目が大きく見開かれる。

「じゃあ……本当のお父さんは?」

「名前も顔も、俺は知らない。母は一度も語らなかった。朝比奈の姓を名乗るようになったのは、小学校の高学年のころだった」

「それまで……?」

「ずっと、母ひとり。俺ひとり。貧しくはなかったけど、裕福でもなかった。母は必死で働いて、俺を育ててくれた」

尚紀の目が、少しだけ遠くを見ていた。

「その母が、ある日“彼”と出会った。——朝比奈宗一。朝比奈家の現会長だ」

「……!」

「彼は、母を妻として迎えてくれた。俺にも家をくれた。でも、“血”は繋がっていない。だから、今も親子関係の欄には“養子”と書かれてる」

咲は、何も言えなかった。
ただ、彼の言葉を噛みしめながら、じっとその隣にいた。

「それでも、俺は“朝比奈家”を背負うと決めた。名前だけじゃない。背負って生きてきたつもりだった」

「……ごめんね。そんな大切な話、私……何も知らなくて」

「謝るな。誰にも話したことなかったから。母が亡くなったあとも、世間には“朝比奈家の嫡男”として通してきた。誰にもバレずに済むなら、それでよかった」

「でも……それを今、義母さんが?」

「そうだ。“正統な血筋ではない”という理由で、俺を排除しようとしている。社内で、解任動議が検討されてる」

咲は震える指先で、尚紀の手をそっと握った。

「でも……それでも、尚紀さんは“朝比奈尚紀”だよ」

「……咲」

「血が繋がってるかなんて、どうでもいい。あなたは、お母様の愛を受けて育って、朝比奈家を守ってきた。……それって、名前以上に重いことだよ」

尚紀の胸が、熱くなる。

「……ありがとう。そう言ってくれるのは、咲だけだ」

「私もね……御手洗家でずっと“名前”に縛られてきた。でも、結局は“想い”が人を動かすんだって気づいたの」

「うん」

「だから、今度は私が、あなたを守る。——“妻”としてじゃなく、“パートナー”として」

尚紀は、咲をそっと抱きしめた。

「心強いな。……ほんとに、強くなった」

「尚紀さんが、強くしてくれたから」

翌朝。

社内では、密かに取締役たちが動き始めていた。

「正式な臨時取締役会を開くべきです。……社長の出自に関する件は、会社の信頼に関わります」

椎名の声が、静かに会議室に響いた。

「“朝比奈”の名にふさわしい人物かどうか、株主に問う必要があるでしょう」

周囲がざわつく中、ひとりの取締役がぽつりと漏らした。

「……でも、実力も成果も“尚紀”がすべて上げてきたじゃないか。血筋より、やってきたことを見た方が……」

椎名は目を細めた。

「“印象”というのは、時に“実績”を凌駕します。とくに、名門と呼ばれる家には」

静かに、だが確実に、“クーデター”は形を取り始めていた。

その夜。

咲は、尚紀の隣で静かにノートPCを広げていた。

「……何してるの?」

「資料まとめ。……もし臨時取締役会が開かれるなら、私も同席させてほしい」

「咲、それは——」

「御手洗家の後継者としてじゃない。——“朝比奈尚紀の妻”として、私はそこにいたい」

咲の瞳は、揺らぎなかった。

「“この人こそ、家を導くのにふさわしい”って、私が証明してみせる」

尚紀は、咲の手を強く握り返した。

「……負けられないな。君が隣にいるなら、俺はどこまでも戦える」

「一緒に、いこう。どんな未来も」

月明かりの差す部屋で、ふたりの影がひとつに重なった。
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