政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

母の願い、娘の決意

御手洗本家の一室。
陽が差し込む穏やかな午後、咲は母の遺品が収められた箱をひとつひとつ開いていた。

尚紀と共に記者会見を乗り越え、そしてあらためてプロポーズを受けた今。

「私は、ここまで来られた。——だから、ちゃんと向き合いたい」

そう思えたのは、自分自身の“足で立つ”覚悟が芽生えたからだった。

「お母さん……」

手にしたのは、年季の入ったノート。
革張りのカバーには、見覚えのある筆跡で小さく名前が記されていた。

《御手洗 華澄》

咲の母が、生前日々を綴っていたノートだ。

ページをめくると、丁寧な文字で家族のこと、日々の出来事、そして娘——咲への想いが書かれていた。

——《咲は今日も元気。少しわがままなところが私に似てる》

——《この子が大人になる頃、どんな風に世界を見るんだろう。私は、その隣にいられるかな》

そして、あるページに、涙を誘う一文があった。

——《咲には、幸せになってほしい。家のためでも、誰かの都合のためでもなく、自分のために笑っていてほしい》

咲は、胸が熱くなり、そっと目を伏せた。

(私は、あの頃……お母さんに“幸せ”を返せたのかな)

(でも、今なら——)

しばらくして、咲は本家の庭を見渡せる縁側に座っていた。

手元には、ノートと一緒に見つかった“母からの封筒”。

当時、咲が事故に遭う直前に書かれたものらしく、開けられた形跡もなかった。

封を開くと、中には手紙が一通。

震える手で咲は読み始めた。

咲へ

この手紙を、いつかあなたが読む日が来るかどうかは分かりません。
でも、もしもあなたが自分を見失いそうになったとき、
思い出してほしいの。

私は、あなたが笑ってくれるだけで幸せだった。
家の後継者として、誰かのために犠牲になるのではなく、
あなたが“自分の人生”を選ぶことが、私の願いです。

たとえ誰が否定しても、私は信じてる。
あなたは私の誇り。

愛しています。

母より

涙が、頬を伝った。

止めようとしても、止まらなかった。

(こんなにも……愛されていた)

(なのに私は、あの事故のあと、その記憶も想いも全部閉じ込めてしまっていた)

咲はそっと空を見上げる。

「ごめんね……ずっと、思い出せなかった。でも、今なら言えるよ」

「私、幸せになる。誰かのためじゃなく、自分で選んで、ちゃんと生きていく」

その声は、空の向こうへと吸い込まれていった。

その夜。

咲は尚紀に、今日の出来事をすべて話した。

母のノートと手紙、そして“願い”。

尚紀は黙って咲の手を握り、話を最後まで聞いてくれた。

「……君のお母さん、すごい人だったんだな」

「うん。ずっと前から、私の未来を願ってくれてた。でも私は、それにちゃんと応えられてなかった気がして……」

「でも、今の君なら……応えられるよ」

尚紀は、咲の指先に視線を落とした。

「この指輪も、君が自分の意志で受け取ってくれた。過去に縛られたんじゃなく、未来を選んでくれた」

「……うん」

「咲。君が何を選んでも、俺は味方でいる。君の未来の中に、俺がいられるなら——それだけでいい」

咲は、小さく笑った。

「ずるいなあ。そんなこと言われたら、逃げられなくなるじゃない」

「最初から、逃げられるつもりなんてないけど」

「……私も」

ふたりは、ゆっくりと額を寄せ合う。

部屋の灯りがあたたかく滲み、時が静かに流れていた。

その夜、咲は新しい日記帳を開いた。

母と同じように、自分の気持ちを記しておきたかった。

《私は今日、大切な想いを受け取った。》

《そして、自分の意志で前に進むことを決めた。》

《私は、母の娘として。——そして、尚紀さんの妻として。》

《胸を張って、幸せになる。》

ペンを置いたとき、咲の心は少しだけ軽くなっていた。

(これから、私は“継ぐ”んじゃない)

(“繋ぐ”ために生きていくんだ)
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