政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

私だけが知っているあなた

春の風が、やわらかに吹いていた午後。

咲はリビングのテーブルに並んだ書類を片付けながら、ふと尚紀に声をかけた。

「ねえ、尚紀さん」

「うん?」

「私、ずっと“聞いてみたい”と思ってたことがあるの」

尚紀が、ソファから顔を上げる。

「……何?」

咲は一瞬だけためらったが、静かに目を見つめて言った。

「尚紀さんの“お母さん”のこと。……どんな方だったの?」

尚紀の表情が、わずかに揺れた。

「……母の話なんて、久しぶりに聞かれたな」

咲は小さく笑う。

「私、あなたにいっぱい助けてもらったのに、まだ何も知らないなって思って。……もっと、ちゃんと知りたい」

尚紀はゆっくりと頷いた。

「そうだな。……話しても、いいか?」

「もちろん」

「母は、強くて、優しくて……そして、ずっと“ひとりで頑張ってた人”だった」

尚紀は、記憶の中をたどるように語り出した。

「俺の父は誰かも分からない。母は一度も話さなかったし、写真もない。俺にとっては、最初から“母だけ”が世界だった」

咲は黙って頷き、彼の言葉を受け止め続けた。

「朝比奈の名前を名乗るようになったのは、小学校の高学年の頃。……母が、朝比奈宗一と出会って、再婚したから」

「でも……母が嫁いだあとも、“本当の息子じゃない”って空気はあった。家の人間、親戚、周囲……全部」

「だから、必死だった。——“認められなきゃいけない”って、ずっと思ってた」

咲の胸が痛んだ。

尚紀は続けた。

「それでも母は、俺には何ひとつ不自由させなかった。“あなたは私の誇りよ”って、何度も言ってくれた」

「その言葉がなかったら……たぶん俺、途中で折れてた」

尚紀は、言葉を止めてふっと息を吐いた。

「……母が亡くなったとき、“もう守られる場所はどこにもない”って思った」

「それからだよ。俺が、徹底して“自分が守る側になろう”って決めたのは」

咲は、そっと尚紀の手を取った。

その手には、今もわずかに震える名残が残っていた。

「……ありがとう。話してくれて」

「……咲」

「尚紀さんがどれだけのものを背負ってきたか、少しだけ分かった気がする。……そして、あなたが今、どれだけ優しいかも」

「俺は、そんな……」

「違うの。あなたは優しすぎるくらい優しい。“守る”ことに必死になって、自分が疲れてることに気づいてない」

咲は尚紀の手を両手で包み込む。

「これからは、私がその荷物を半分持つ。——妻なんだから」

その言葉に、尚紀の目がほんのり滲んだ。

「……咲」

「これまでは、あなたが支えてくれた。だから今度は、私があなたの居場所になりたい。誰に否定されてもいい。私が“あなたの価値”を一番よく知ってるから」

ふたりの距離が、ふわりと近づく。

尚紀は、そっと咲の肩を引き寄せ、額を重ねた。

「ありがとう。……もう、無理しない。これからは、ふたりで生きていく」

「うん。ふたりで、ね」

その夜。

尚紀は珍しく、眠りに落ちるまで咲の手を握っていた。

「昔、夜が一番嫌いだったんだ。——“母がいついなくなるか”って、怖くて」

「……」

「でも今は、夜が好き。君が隣で眠ってくれるから」

咲は、小さく微笑みながら手を握り返した。

「夜は、ふたりだけの時間ですから」

尚紀は目を閉じたまま、ゆっくりと頷く。

「……そうだな。ふたりだけの……大切な時間だ」

窓の外では風がそよぎ、春の気配が優しく夜を包み込んでいた。

その翌日。
咲はこっそり、ノートにひとことだけ書き残した。

“この人を、私はずっと守っていく。だって、私だけが知ってる——彼の優しさも、孤独も、全部。”
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