政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる
彼の世界と、私の居場所
尚紀との同居生活が始まって、数日が経った。
生活の中で大きな不満があるわけではない。
会話は必要最低限ながらも穏やかで、尚紀はいつも礼儀正しく、気遣いを忘れない。
でも——
「朝はこの時間に出て、夜は大体二十二時頃に戻る予定です」
彼は毎朝そう言って、決まった時刻に家を出る。
私が起きてコーヒーを用意する頃には、玄関の扉はすでに閉まっていることも多い。
帰宅する時間も日によって前後し、そのまま書斎にこもってしまうこともある。
一緒に暮らしているのに、すれ違ってばかりだった。
ある日の午後、私は義母から言いつけられていた“挨拶回り”に向かうため、一人で夫の会社の近くまで足を運んだ。
挨拶先は、父の紹介で古くから付き合いのある和菓子屋。
尚紀の知り合いでもなんでもない。ただ、“朝比奈尚紀の妻”という立場を利用して、義母が信頼関係を取り戻そうと画策したに過ぎなかった。
「御手洗さん、本当に朝比奈専務の奥様でいらっしゃるんですか?」
丁寧な笑顔の裏に隠された疑念の色。
私はそのたびに、自分の立場が“本物”でないような気がして、声が小さくなる。
「……はい。至らない点も多いのですが、よろしくお願いいたします」
帰り道、履きなれないヒールが足に食い込んで、痛みを我慢しながらタクシーに乗り込んだ。
(私って、今……何者なんだろう)
その夜、珍しく尚紀が早めに帰宅した。
「おかえりなさい。お疲れさまでした」
私の声に彼は「ただいま」と返し、ネクタイを緩めながらソファに腰を下ろす。
「今日、知り合いの会社へ挨拶に行ってきたの。……義母から言われていて」
尚紀は少し驚いたように私を見た。
それから、ほんのわずかに眉をひそめる。
「君一人で?誰も同行しなかったのか」
「うん。父の紹介だったから、先方は私の名前で理解してくれて……」
「そういう問題じゃない」
尚紀の声が、珍しく低くなった。
「君が“朝比奈の妻”として動くなら、最低限の準備と護衛が必要だ。無関係な場所でも、名前を出せば影響がある」
静かだけれど、明らかに怒っていた。
私はその温度差に、少しだけ戸惑った。
「……ごめんなさい。そこまで考えていなかった」
謝った私に、尚紀はため息をついて、少し声の調子を落とした。
「咲、君が悪いわけじゃない。ただ——俺の名前を使うっていうのは、そういうことなんだ。……君が傷つくような目に遭うのは、見たくない」
(……それって)
言葉を飲み込む。
“守るため”だと分かっていても、どこか、自分の存在が足を引っ張っているようで、息苦しかった。
その夜、尚紀が珍しく「一緒に夕食をとろう」と言った。
簡単な煮物とご飯を用意し、二人でテーブルを囲む。
「君は、今の生活に不満はない?」
不意に投げかけられた言葉に、箸を持つ手が止まる。
「……いえ。不満なんて。むしろ、よくしてもらってばかりで」
「……それならいい」
尚紀はそれきり何も言わず、静かに箸を動かした。
私もそれ以上聞けなかった。
でも、そのやり取りの裏側に、何かがある気がしてならなかった。
彼はいつも理性的で、冷静で、表情を崩さない。
けれどその奥に、何かを押し殺すようなものがある気がして——
それが何か、私はまだ分からなかった。
その夜、洗面台で髪を乾かしていると、ふと鏡越しに自分の表情が目に入った。
思っていたより疲れた顔。少しやつれたようにも見える。
(これが、“幸せな新婚生活”の顔なのかな)
違うと分かっている。これは、契約結婚。愛がないのは当然だ。
それでも、どこかで期待してしまう自分がいる。
「もっと踏み込めたらいいのに」
小さくつぶやいた言葉が、鏡の向こうで虚しく響いた。
尚紀の背中は遠い。
同じ家にいても、隣に座っていても、彼の心には届かない。
だけど。
もし、いつか。
この距離が、少しでも縮まったら——
そんな風に願ってしまう自分が、一番厄介だった。
生活の中で大きな不満があるわけではない。
会話は必要最低限ながらも穏やかで、尚紀はいつも礼儀正しく、気遣いを忘れない。
でも——
「朝はこの時間に出て、夜は大体二十二時頃に戻る予定です」
彼は毎朝そう言って、決まった時刻に家を出る。
私が起きてコーヒーを用意する頃には、玄関の扉はすでに閉まっていることも多い。
帰宅する時間も日によって前後し、そのまま書斎にこもってしまうこともある。
一緒に暮らしているのに、すれ違ってばかりだった。
ある日の午後、私は義母から言いつけられていた“挨拶回り”に向かうため、一人で夫の会社の近くまで足を運んだ。
挨拶先は、父の紹介で古くから付き合いのある和菓子屋。
尚紀の知り合いでもなんでもない。ただ、“朝比奈尚紀の妻”という立場を利用して、義母が信頼関係を取り戻そうと画策したに過ぎなかった。
「御手洗さん、本当に朝比奈専務の奥様でいらっしゃるんですか?」
丁寧な笑顔の裏に隠された疑念の色。
私はそのたびに、自分の立場が“本物”でないような気がして、声が小さくなる。
「……はい。至らない点も多いのですが、よろしくお願いいたします」
帰り道、履きなれないヒールが足に食い込んで、痛みを我慢しながらタクシーに乗り込んだ。
(私って、今……何者なんだろう)
その夜、珍しく尚紀が早めに帰宅した。
「おかえりなさい。お疲れさまでした」
私の声に彼は「ただいま」と返し、ネクタイを緩めながらソファに腰を下ろす。
「今日、知り合いの会社へ挨拶に行ってきたの。……義母から言われていて」
尚紀は少し驚いたように私を見た。
それから、ほんのわずかに眉をひそめる。
「君一人で?誰も同行しなかったのか」
「うん。父の紹介だったから、先方は私の名前で理解してくれて……」
「そういう問題じゃない」
尚紀の声が、珍しく低くなった。
「君が“朝比奈の妻”として動くなら、最低限の準備と護衛が必要だ。無関係な場所でも、名前を出せば影響がある」
静かだけれど、明らかに怒っていた。
私はその温度差に、少しだけ戸惑った。
「……ごめんなさい。そこまで考えていなかった」
謝った私に、尚紀はため息をついて、少し声の調子を落とした。
「咲、君が悪いわけじゃない。ただ——俺の名前を使うっていうのは、そういうことなんだ。……君が傷つくような目に遭うのは、見たくない」
(……それって)
言葉を飲み込む。
“守るため”だと分かっていても、どこか、自分の存在が足を引っ張っているようで、息苦しかった。
その夜、尚紀が珍しく「一緒に夕食をとろう」と言った。
簡単な煮物とご飯を用意し、二人でテーブルを囲む。
「君は、今の生活に不満はない?」
不意に投げかけられた言葉に、箸を持つ手が止まる。
「……いえ。不満なんて。むしろ、よくしてもらってばかりで」
「……それならいい」
尚紀はそれきり何も言わず、静かに箸を動かした。
私もそれ以上聞けなかった。
でも、そのやり取りの裏側に、何かがある気がしてならなかった。
彼はいつも理性的で、冷静で、表情を崩さない。
けれどその奥に、何かを押し殺すようなものがある気がして——
それが何か、私はまだ分からなかった。
その夜、洗面台で髪を乾かしていると、ふと鏡越しに自分の表情が目に入った。
思っていたより疲れた顔。少しやつれたようにも見える。
(これが、“幸せな新婚生活”の顔なのかな)
違うと分かっている。これは、契約結婚。愛がないのは当然だ。
それでも、どこかで期待してしまう自分がいる。
「もっと踏み込めたらいいのに」
小さくつぶやいた言葉が、鏡の向こうで虚しく響いた。
尚紀の背中は遠い。
同じ家にいても、隣に座っていても、彼の心には届かない。
だけど。
もし、いつか。
この距離が、少しでも縮まったら——
そんな風に願ってしまう自分が、一番厄介だった。