政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる
仮面の夫婦と、優しい嘘
「明日の夜、会社の会食に同席してほしい」
その知らせは、夕食のあと、食器を片付けていたときに不意に告げられた。
「……会食?」
「グループの役員と、その取引先が集まる会。場所はホテルのレストランだ。夫婦同伴が原則で、俺は例年欠席してきたけど、今年はどうしても外せないらしい」
尚紀はそう言って、カウンター越しに私を見た。
その表情は、いつものように淡々としていて、どこか遠い。
「もちろん、無理にとは言わない。出たくなければ断ってもいい。形式的なものだから」
「……行きます。大丈夫です」
即答した自分に、少しだけ驚いた。
私は、夫婦らしいことを何一つしていない。
でも今、彼の隣に立つことを、嫌だと思わなかった。
むしろ、少しだけ——
“妻”として扱われることで、この関係に確かさを求めている自分がいた。
翌日、会場となるホテルに到着した私は、場違いなほど緊張していた。
黒いロングドレスに、シンプルなパールのアクセサリー。
鏡で何度も確認したのに、尚紀の隣に立つと、それでも何かが足りない気がする。
「緊張してる?」
エレベーターの中で、尚紀が小さく尋ねた。
その声はどこまでも優しく、静かで、心に直接触れるようだった。
「……はい。少しだけ」
「大丈夫。形式的な会だ。俺の隣にいれば、それでいい」
彼の言葉が、思いがけず胸を温めた。
(“隣にいればいい”——それだけで安心できるなんて)
会場に入ると、すでに多くの人が集まっていた。
格式ある会場。着飾った人々。交わされるのは仕事と経済の話ばかり。
そのなかで、私はとにかく“笑顔を絶やさない”ことだけに集中していた。
「朝比奈専務の奥様、初めて拝見しましたよ。随分とお若い」
「とても上品な方ですね。ご実家も、たしか老舗の……?」
誰もがにこやかに、けれど探るような視線を向けてくる。
私はそれに丁寧に応じながら、心の奥がすり減っていくのを感じていた。
そんな私の手を、尚紀がそっと取った。
「無理しなくていい。俺が隣にいるから」
低く囁かれた声に、全身が一瞬で熱を持った。
優しいだけじゃない、どこか強引なその言葉に、思わず呼吸が浅くなる。
周囲の視線が注がれるなか、彼は私の背中に軽く手を添えた。
それは、完璧な“夫”の仕草だった。
けれど——
(こんな風に、誰の前でも自然にできるなんて)
それが演技だと思うと、少しだけ切なかった。
会が終わった帰り道、尚紀が車のドアを開けてくれた。
「今日はありがとう。助かったよ」
「私こそ……何もできなくて、ごめんなさい」
「何も、ってことはない。君はちゃんと“妻”としてそこにいた」
運転席に回る前、尚紀がふと立ち止まった。
「……今日の俺、驚いた?」
「……少しだけ。あんな風に、自然に“夫”っぽく振る舞えるんだって」
「そう見えたなら、よかった」
「でも……普段から、ああいう感じなんですか?それとも、私の前だけ?」
尚紀は短く黙ったあと、穏やかに微笑んだ。
「君の前だけ、だと思う」
その言葉に、胸の奥がひどくざわついた。
家に戻って、ドレスを脱ぎ捨てたあと、私はソファに座り込んだ。
静かな部屋に、尚紀が入れてくれた紅茶の香りが漂っている。
「本当に、ありがとう。今日は咲がいてくれて助かった」
尚紀がそう言ったとき、私はふと口を開いた。
「尚紀さんは、すごく自然にふるまえるんですね。……“夫婦らしく”っていうか」
「そう見えたなら、俺の勝ちだな」
「でも……それって、演技なんですよね?」
自分でも、どうしてそんなことを訊いたのか分からない。
ただ、知りたかった。“優しさ”の向こうにあるものを。
尚紀は少し目を伏せ、それから静かに言った。
「……そうかもしれない。でも、“君を守るための演技”なら、俺は何度だってするよ」
その一言に、心の奥がじんわりと熱くなった。
契約結婚——形式だけの関係。
けれど、彼が見せるその優しさの中には、確かな“意志”があった。
それが恋か、愛かは分からない。
でも、私はたしかに彼に“大切にされている”と感じていた。
たとえそれが、優しい嘘だったとしても——
今は、もう少しこの関係に甘えてもいいのかもしれない。
その知らせは、夕食のあと、食器を片付けていたときに不意に告げられた。
「……会食?」
「グループの役員と、その取引先が集まる会。場所はホテルのレストランだ。夫婦同伴が原則で、俺は例年欠席してきたけど、今年はどうしても外せないらしい」
尚紀はそう言って、カウンター越しに私を見た。
その表情は、いつものように淡々としていて、どこか遠い。
「もちろん、無理にとは言わない。出たくなければ断ってもいい。形式的なものだから」
「……行きます。大丈夫です」
即答した自分に、少しだけ驚いた。
私は、夫婦らしいことを何一つしていない。
でも今、彼の隣に立つことを、嫌だと思わなかった。
むしろ、少しだけ——
“妻”として扱われることで、この関係に確かさを求めている自分がいた。
翌日、会場となるホテルに到着した私は、場違いなほど緊張していた。
黒いロングドレスに、シンプルなパールのアクセサリー。
鏡で何度も確認したのに、尚紀の隣に立つと、それでも何かが足りない気がする。
「緊張してる?」
エレベーターの中で、尚紀が小さく尋ねた。
その声はどこまでも優しく、静かで、心に直接触れるようだった。
「……はい。少しだけ」
「大丈夫。形式的な会だ。俺の隣にいれば、それでいい」
彼の言葉が、思いがけず胸を温めた。
(“隣にいればいい”——それだけで安心できるなんて)
会場に入ると、すでに多くの人が集まっていた。
格式ある会場。着飾った人々。交わされるのは仕事と経済の話ばかり。
そのなかで、私はとにかく“笑顔を絶やさない”ことだけに集中していた。
「朝比奈専務の奥様、初めて拝見しましたよ。随分とお若い」
「とても上品な方ですね。ご実家も、たしか老舗の……?」
誰もがにこやかに、けれど探るような視線を向けてくる。
私はそれに丁寧に応じながら、心の奥がすり減っていくのを感じていた。
そんな私の手を、尚紀がそっと取った。
「無理しなくていい。俺が隣にいるから」
低く囁かれた声に、全身が一瞬で熱を持った。
優しいだけじゃない、どこか強引なその言葉に、思わず呼吸が浅くなる。
周囲の視線が注がれるなか、彼は私の背中に軽く手を添えた。
それは、完璧な“夫”の仕草だった。
けれど——
(こんな風に、誰の前でも自然にできるなんて)
それが演技だと思うと、少しだけ切なかった。
会が終わった帰り道、尚紀が車のドアを開けてくれた。
「今日はありがとう。助かったよ」
「私こそ……何もできなくて、ごめんなさい」
「何も、ってことはない。君はちゃんと“妻”としてそこにいた」
運転席に回る前、尚紀がふと立ち止まった。
「……今日の俺、驚いた?」
「……少しだけ。あんな風に、自然に“夫”っぽく振る舞えるんだって」
「そう見えたなら、よかった」
「でも……普段から、ああいう感じなんですか?それとも、私の前だけ?」
尚紀は短く黙ったあと、穏やかに微笑んだ。
「君の前だけ、だと思う」
その言葉に、胸の奥がひどくざわついた。
家に戻って、ドレスを脱ぎ捨てたあと、私はソファに座り込んだ。
静かな部屋に、尚紀が入れてくれた紅茶の香りが漂っている。
「本当に、ありがとう。今日は咲がいてくれて助かった」
尚紀がそう言ったとき、私はふと口を開いた。
「尚紀さんは、すごく自然にふるまえるんですね。……“夫婦らしく”っていうか」
「そう見えたなら、俺の勝ちだな」
「でも……それって、演技なんですよね?」
自分でも、どうしてそんなことを訊いたのか分からない。
ただ、知りたかった。“優しさ”の向こうにあるものを。
尚紀は少し目を伏せ、それから静かに言った。
「……そうかもしれない。でも、“君を守るための演技”なら、俺は何度だってするよ」
その一言に、心の奥がじんわりと熱くなった。
契約結婚——形式だけの関係。
けれど、彼が見せるその優しさの中には、確かな“意志”があった。
それが恋か、愛かは分からない。
でも、私はたしかに彼に“大切にされている”と感じていた。
たとえそれが、優しい嘘だったとしても——
今は、もう少しこの関係に甘えてもいいのかもしれない。