政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる
母の顔をした他人
「今から少しだけ伺うわね」
そう書かれた義母からのメッセージは、突然だった。
事前の相談も、訪問の理由も書かれていない。
まるで“家族なのだから当然”とでも言わんばかりの文面だった。
私はソファの上で、その短い文字列を見つめたまま、小さくため息をついた。
(どうして、何も言わずに来るの……)
前回の真白の訪問といい、義母の“突発的な干渉”はエスカレートしてきている。
尚紀は出社中。私は一人でこの部屋を守ることになる。
(これは、“試されている”んだろうか)
義母の目的は分かっている。
私がこの家に“ふさわしい人間かどうか”、観察し、測ろうとしているのだ。
でもそれは、本来“家族”がすることではない。
チャイムが鳴いたとき、私はすでに玄関の前に立っていた。
扉を開けると、そこには淡いラベンダー色のツイードのセットアップに身を包んだ義母がいた。
「咲、思っていたよりちゃんと暮らしているみたいね」
開口一番、そんな感想を投げられた。
「……こんにちは。急にどうされたんですか?」
「用がなければ娘の顔も見られないなんて、寂しいわね」
言葉とは裏腹に、その目は少しも笑っていなかった。
義母は靴を脱ぎ、当然のようにリビングへと進んでいく。
私は慌ててお茶の準備をしながら、冷静さを保つことに集中した。
「真白から聞いたわ。とても素敵なお住まいね。家具の趣味は……全部あちらのセレクトかしら?」
「はい。私はまだ引っ越したばかりなので」
「そう。じゃあ、これから少しずつ“奥さまらしさ”を加えていかないとね」
にこやかな口調でそう言いながら、義母はテーブルの上にさりげなく紙袋を置いた。
「これ、良ければ使って。真白が選んだカップ&ソーサーのセット。可愛いのよ、あなたの趣味には合わないかもしれないけど」
「……ありがとうございます」
ありがとう、とは言ったものの。
“あなたの趣味には合わないかもしれない”という言葉の端々が、私の中にじんと刺さる。
私は、何をしても“この家の娘”として認められたことはなかった。
お茶を出したあと、義母はふと室内を見渡した。
「……この家、咲のお母様のものとは随分違うわね」
その言葉に、指先がぴくりと震えた。
「私の……母?」
「そう。実のお母様。私とは違って、あの方はとても静かな方だったって聞いたわ。今も写真は飾っているの?」
「……いえ、実家にもあまり置かれていません」
「そう。……ちょっと意外ね。あなたが一番“母親らしさ”を求めていたのに」
思わず手が止まった。
(どうして、そんなことを今……)
義母は紅茶を口に含みながら、ふっと笑う。
「私があなたをちゃんと育てなかったように聞こえたかしら?でもね、咲。あなたがここに嫁いだのは、あの人——あなたの実母が望んだような“幸せ”じゃないのよ」
冷たい声だった。
包み込むように聞こえて、でも芯は鋭くて硬い。
「だから、あまり無理しないで。もし辛いようなら、少し距離を置くことも考えた方がいいと思うわ」
それはつまり——
“身を引け”という遠回しな警告だった。
義母が帰ったあと、私はリビングで一人、膝を抱えていた。
亡き母の話をされると、心のどこかが妙に疼く。
はっきりとした記憶は残っていないのに、母の姿はいつも、柔らかな光に包まれて思い出される。
優しかった、気がする。
静かで、でもあたたかくて。私の髪を撫でる手の感触だけは、今も鮮明に覚えている。
(本当に、私は今、“幸せ”なんだろうか)
仮面のような日々のなかで、自分の居場所が分からなくなる。
そんなとき、玄関のドアが開いた音がした。
尚紀が帰ってきた。
その顔を見た途端、私は自分の表情を取り繕えなかった。
「……どうした?」
「ごめんなさい。ちょっとだけ、疲れてしまって」
笑ってごまかそうとしたその瞬間、尚紀がソファの前に膝をついた。
「咲、泣いてる?」
「……泣いてない。大丈夫」
そう言った声が、かすれていたのは自分でも分かっていた。
「今日は、何があった?」
「……義母が、突然来て。真白の話をして、私の母の話もして」
そこまで言って、言葉が詰まった。
けれど、尚紀は何も言わずに、ただそっと私の手を握った。
その手が、思っていたよりずっとあたたかかった。
「咲。君は、今ここにいる。その理由は、誰でもない、俺が君を迎えたからだ。……他の誰でもない、俺が選んだ」
その言葉に、張り詰めていたものが一気に崩れた。
「……ありがとう」
声が震えて、涙が一粒だけ落ちた。
尚紀の手は、ずっと私の手を包み込んでいた。
その時、初めて——
私は“守られている”と実感した。
そう書かれた義母からのメッセージは、突然だった。
事前の相談も、訪問の理由も書かれていない。
まるで“家族なのだから当然”とでも言わんばかりの文面だった。
私はソファの上で、その短い文字列を見つめたまま、小さくため息をついた。
(どうして、何も言わずに来るの……)
前回の真白の訪問といい、義母の“突発的な干渉”はエスカレートしてきている。
尚紀は出社中。私は一人でこの部屋を守ることになる。
(これは、“試されている”んだろうか)
義母の目的は分かっている。
私がこの家に“ふさわしい人間かどうか”、観察し、測ろうとしているのだ。
でもそれは、本来“家族”がすることではない。
チャイムが鳴いたとき、私はすでに玄関の前に立っていた。
扉を開けると、そこには淡いラベンダー色のツイードのセットアップに身を包んだ義母がいた。
「咲、思っていたよりちゃんと暮らしているみたいね」
開口一番、そんな感想を投げられた。
「……こんにちは。急にどうされたんですか?」
「用がなければ娘の顔も見られないなんて、寂しいわね」
言葉とは裏腹に、その目は少しも笑っていなかった。
義母は靴を脱ぎ、当然のようにリビングへと進んでいく。
私は慌ててお茶の準備をしながら、冷静さを保つことに集中した。
「真白から聞いたわ。とても素敵なお住まいね。家具の趣味は……全部あちらのセレクトかしら?」
「はい。私はまだ引っ越したばかりなので」
「そう。じゃあ、これから少しずつ“奥さまらしさ”を加えていかないとね」
にこやかな口調でそう言いながら、義母はテーブルの上にさりげなく紙袋を置いた。
「これ、良ければ使って。真白が選んだカップ&ソーサーのセット。可愛いのよ、あなたの趣味には合わないかもしれないけど」
「……ありがとうございます」
ありがとう、とは言ったものの。
“あなたの趣味には合わないかもしれない”という言葉の端々が、私の中にじんと刺さる。
私は、何をしても“この家の娘”として認められたことはなかった。
お茶を出したあと、義母はふと室内を見渡した。
「……この家、咲のお母様のものとは随分違うわね」
その言葉に、指先がぴくりと震えた。
「私の……母?」
「そう。実のお母様。私とは違って、あの方はとても静かな方だったって聞いたわ。今も写真は飾っているの?」
「……いえ、実家にもあまり置かれていません」
「そう。……ちょっと意外ね。あなたが一番“母親らしさ”を求めていたのに」
思わず手が止まった。
(どうして、そんなことを今……)
義母は紅茶を口に含みながら、ふっと笑う。
「私があなたをちゃんと育てなかったように聞こえたかしら?でもね、咲。あなたがここに嫁いだのは、あの人——あなたの実母が望んだような“幸せ”じゃないのよ」
冷たい声だった。
包み込むように聞こえて、でも芯は鋭くて硬い。
「だから、あまり無理しないで。もし辛いようなら、少し距離を置くことも考えた方がいいと思うわ」
それはつまり——
“身を引け”という遠回しな警告だった。
義母が帰ったあと、私はリビングで一人、膝を抱えていた。
亡き母の話をされると、心のどこかが妙に疼く。
はっきりとした記憶は残っていないのに、母の姿はいつも、柔らかな光に包まれて思い出される。
優しかった、気がする。
静かで、でもあたたかくて。私の髪を撫でる手の感触だけは、今も鮮明に覚えている。
(本当に、私は今、“幸せ”なんだろうか)
仮面のような日々のなかで、自分の居場所が分からなくなる。
そんなとき、玄関のドアが開いた音がした。
尚紀が帰ってきた。
その顔を見た途端、私は自分の表情を取り繕えなかった。
「……どうした?」
「ごめんなさい。ちょっとだけ、疲れてしまって」
笑ってごまかそうとしたその瞬間、尚紀がソファの前に膝をついた。
「咲、泣いてる?」
「……泣いてない。大丈夫」
そう言った声が、かすれていたのは自分でも分かっていた。
「今日は、何があった?」
「……義母が、突然来て。真白の話をして、私の母の話もして」
そこまで言って、言葉が詰まった。
けれど、尚紀は何も言わずに、ただそっと私の手を握った。
その手が、思っていたよりずっとあたたかかった。
「咲。君は、今ここにいる。その理由は、誰でもない、俺が君を迎えたからだ。……他の誰でもない、俺が選んだ」
その言葉に、張り詰めていたものが一気に崩れた。
「……ありがとう」
声が震えて、涙が一粒だけ落ちた。
尚紀の手は、ずっと私の手を包み込んでいた。
その時、初めて——
私は“守られている”と実感した。