雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚

【第一章 空色の名刺が舞い込む】

 東京・港区。春の始まりを知らせるように、桜がビルの谷間をそっと揺らしていた。月曜の朝八時、通勤ラッシュの波をかき分けるように〈リュシオール〉のガラス扉がひときわ軽やかに開く。インテリアデザイン事務所としては小規模なこの会社の受付には、いつもと変わらぬ静けさが流れていた。
 しかしその朝、受付に立つ松野結莉の胸には、いつもと違うざわめきがあった。昨日の夜から、心の奥が妙に落ち着かない。コーヒーを飲んでも、指先の震えが止まらない。理由もわからないまま、結莉はきっちりと巻いたお団子ヘアに手を添え、制服のスカーフを何度も直した。反射的な動作だが、鏡に映る自分の瞳が、どこか遠くを見ていることに気づいて、そっと目を伏せる。
 「……変ね、春だからかな」
 そう呟いた直後、オフィスビルの自動ドアが再び開いた。乾いた革靴の音。思わず顔を上げると、そこに立っていたのは、まるで異国の映画から抜け出したような男だった。濃紺のスーツに、淡いグレーのタイ。整った輪郭と切れ長の目元からは、ただ者ではない気配が立ち上る。だがそれ以上に、結莉の心を打ったのは、彼の持つ空気の“余白”だった。
 その男は、まっすぐに受付に近づくと、カウンターに軽く肘をついた。まるで、彼の存在がここにあることを自然に肯定するかのような仕草だった。彼は何も言わず、ただ結莉を見つめた。しばしの静寂。時間がふっと溶けた気がした。
 「……あなたが、松野結莉さんですね」
 低く、しかしよく通る声。その声には、確信と余裕が含まれていた。初対面なのに名前を呼ばれたことに戸惑いながらも、結莉は条件反射のように深々と頭を下げた。
 そのときだった。背後から通行人が通りかかり、同じタイミングでぺこりと頭を下げた気配があった。受付で働く結莉は、この“知らない人と同時にお辞儀してしまう”というシチュエーションに慣れてはいたが、今回は違った。妙に気まずく、そしてなぜか頬が熱くなる。
 「ふふっ」
 男が笑った。決して嘲笑ではない、むしろこちらの戸惑いを優しく包み込むような笑いだった。
 「他人と同じタイミングで頭を下げるの、ちょっと気まずいですよね。……でも、あなたは気まずさすら似合うから、困る」
 唐突な褒め言葉に、結莉の頬がさらに熱を帯びる。何か返さなければと思うのに、言葉がうまく出てこない。そんな彼女の前で、男は一枚の名刺をすっと滑らせた。まるで、風に乗って舞い込んできたかのように、滑らかに、静かに。名刺の色は、澄んだ空を思わせる淡い青――それを見た瞬間、結莉の心に何かが触れた。いや、突き刺さった。
 〈広田グループ 本社デザイン統括 広田千景〉
 その名に目を見張ったのは、会社の規模のせいではない。結莉は一度だけ、この名前を、デザイン雑誌の特集で見たことがあった。“次世代を担う、唯一無二の感性”と評された若き実業家。業界でも話題となっていた人物だ。
 「本日から数日間、こちらにお世話になります。……いや、正確には、“あなたに”お世話になります、が正しいか」
 一拍置いて、千景は視線をやわらかく揺らした。まるで、そのひと言で結莉の心の中に何が起きているのかをすべて見透かしているかのように。
 「本社ビルの全面改装を任せたいんです。もちろん、あなたに」
 「……えっ?」
 言葉が耳に届いた瞬間、結莉の頭の中にあった日常の風景が一気に崩れた。取引先の対応、レイアウト変更の微調整、限られた予算と格闘する日々。それらとは桁違いのスケールが、目の前のこの男の瞳には宿っていた。
 「いきなりですみません。でも、僕はもう決めてます。あなたの過去の作品、全部調べさせてもらいました。……運命って言葉、普段は使わないけど、今日は使いたくなった」
 どうして……。なぜ、自分に? そんな疑問が浮かびながらも、結莉は同時に胸の奥にわずかな高揚を感じていた。否応なく惹きつけられる何かが、目の前の男――千景にはあった。冷静な判断を欠くほどに、心がざわついていた。

 結莉は何かを口にしようとしたが、言葉が舌の上で滑り、声にならなかった。まるで深い湖の底に沈んだ石のように、心の中に重みだけが残っている。こんなふうに誰かに――ましてや初対面の相手に――「選ばれる」経験など、彼女の人生にはなかった。デザイナーとしては決して目立つ存在ではない。組織の歯車のひとつとして、確実で堅実な仕事を積み上げてきた。それが、唯一の誇りであり、同時に限界でもあった。
 「……私に、ですか?」
 やっとのことで絞り出した声は、驚きと戸惑いの入り混じったものだった。自分でも情けないと思うほどに、震えていた。けれど千景はそれを否定せず、むしろ微笑を深めて頷いた。
 「そう。僕が探していたのは、誰よりも“空間の記憶”を大切にする人間。君の作品には、そこに生きる人の物語がある。図面よりも、その奥にある温度に惹かれた。だから、君にしか任せたくない」
 空間の記憶。物語。千景の口から次々に放たれる言葉は、どれも結莉がずっと心に留めてきた概念だった。それらを“見抜かれた”という事実が、嬉しさよりも先に、怖さを連れてくる。
 「……でも、私、そんな大きな仕事は……経験も、規模も……」
 「関係ないよ」
 その声は、まるで反論を予期していたかのように、やさしく、しかし確かに重なった。
 「経験なんて、いくら積んでも“自分の感性”の代わりにはならない。僕が欲しいのは、君の目に映る“舞台”なんだ。君にとっての“唯一無二”を、一緒に形にしたい」
 舞台。――新社長就任披露会。それは、単なる改装工事ではなく、広田グループの“顔”を一新するイベント。あらゆるメディアが注目し、業界内外の視線が集まるはずだ。そこに、自分の名前が並ぶという現実が、一瞬だけ頭をよぎる。けれど同時に、背中にひやりとした冷気が走った。失敗すればすべてを失う。自信なんて、持てるはずがない。
 しかし、その不安をかき消すように、千景の声が再び届いた。
 「怖いと思ってるでしょ。でも、僕も同じ。初めて会った君に、全社の未来を賭けようとしてるんだから。……でも、不思議なんだ。怖さよりも、期待の方が勝ってる。きっとそれって、君の目がそう思わせたんだよ」
 目。結莉は、無意識に自分の目元に触れそうになった。目なんて、ただ情報を映すだけの器官だと思っていた。けれど、彼の言葉を聞いた瞬間、自分でも知らなかった何かが、まぶたの裏で灯るような感覚があった。
 カウンター越しに、千景は名刺の角を指先でトントンと叩きながら、ふっと表情を崩した。
 「この空色、好きなんだ。少し霞がかった、春の朝の空みたいでさ。君のデザインを初めて見たとき、この色が浮かんだ。だから名刺も、青に変えたんだよ。僕にとっては、君に出会うための色だった」
 まるで恋人が告白するような調子に、結莉の心臓が跳ね上がった。冗談にしては本気すぎる。けれど、本気にしていいほどの距離でもない。ただひとつ言えるのは――彼は本気でこのプロジェクトに、そして自分に賭けようとしているということ。
 「……考えさせてください」
 結莉は、静かにそう告げた。震えそうになる唇を、ぐっと噛みしめながら。今すぐに「やります」と言えるほど、自分は強くない。でも、逃げる理由にも、もう言い訳はできなかった。
 「もちろん。時間はあまりないけど、君の“うん”を待つ時間なら、いくらでもある」
 そう言って、千景は背を伸ばした。名刺だけが、カウンターの上に残されている。空色の名刺。それはまるで、結莉の胸の奥に張りついた春の風のように、ひそやかに、けれど確実に、彼女の中に新しい季節の扉を開けていた。
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