雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚

【第十章 未来の予知】

 東の空がゆっくりと白んでいく。モンゴルの夜明けは、驚くほど静かだった。風の音も、草のさざめきも、今はまだ眠っているようで、地平線の彼方からわずかに顔を出した太陽だけが、世界を少しずつ金色に染めていく。
 結莉は、ひとりで石碑の階段を登っていた。昨日の崩落で薄く擦りむいた膝が、朝の冷気に染みる。それでも足を止めなかったのは、どうしても自分の目で確かめたかったからだ。この石碑に描かれたもの、その“意味”を。
 頂上にたどり着くと、空がぐっと近くなる。地上よりもひとつ高い場所から見る風景は、まるで別の世界のようだった。冷たい石の上に腰を下ろし、結莉はゆっくりと息を吐いた。その吐息が、白くならなかったことに少しだけ安心する。まだ春なのだ。
 ふと、足音が聞こえた。振り返ると、そこには千景がいた。やはり彼も、眠ってなどいなかった。
 「やっぱり、来てたんだな」
 その声に、結莉はただ微笑んだ。言葉は要らなかった。二人とも、ここに来ると分かっていたから。
 千景は結莉の隣に座り、しばらくのあいだ、黙って朝焼けを見つめていた。やがて、彼はふと右手を伸ばし、石碑のレリーフを指でなぞった。太陽の光が、ゆっくりとその指先を照らしていく。
 「これ、見えるか?」
 刻まれた模様が、光の加減で浮かび上がってきた。それは単なる装飾ではなく、意味を持った線だった。円と、星と、弧を描く線の組み合わせ。その中心には、二つの文字があった。
 「……“守護”と“予言”。?」
 結莉が呟くと、千景は静かに頷いた。
 「祖父が言ってた。“文明の記憶を守る者になれ”って。あの言葉、ずっとわからなかったけど、今は少しだけ分かる気がする。俺たちが守らなきゃいけないのは、遺物や形じゃない。そこに込められた意志や、過去の誰かが未来に託した“想い”なんだ」
 風が吹いた。冷たいはずのその風が、不思議とやさしく肌を撫でていく。結莉はそっと立ち上がり、レリーフに指を添えた。石の表面は思っていたよりも滑らかで、だがところどころに深い傷がある。それが、時代を越えて受け継がれてきたことの証だった。
 「この文字も、きっと誰かが“未来の誰か”に届くようにと刻んだんですね。壊れないように、忘れられないように」
 千景は頷く。その横顔には、これまで見たことのない、静かな熱が宿っていた。
 「だから僕は、守りたい。ここにあるものも、これから築くものも。そして……君も」
 その言葉に、結莉は一瞬だけ呼吸を止めた。夜明けの冷気が、肌を刺すように伝わる。だが胸の奥は、炎のように熱くなっていた。
 「私は、守られるだけの人間じゃない」
 結莉の声は震えていなかった。自分でも驚くほど、まっすぐだった。
 「この先、どんな道でも……私の手で、この未来を“守る”って決めました。あなたの背中じゃなくて、隣で歩く。それが……私の選択です」
 千景は何も言わなかった。ただ、そのまま彼女の指先に自分の指を重ねた。レリーフの上、刻まれた“守護”という文字をなぞるように、二人の指先が重なる。
 東の空に、光が満ちていく。金の帆を張った雲が空を渡り、石碑の頂上に、朝日がまっすぐに射し込んだ。その瞬間、千景の瞳に光が差し込み、結莉はそのまばゆさに目を細めた。
 何もかもが、はじまりだった。守ると誓うことは、過去を背負うことではない。未来を共に歩むという、決意の証なのだ。

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