雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚

【第十二章 パイ皿に映る真実】

 倉庫街の片隅、海沿いの建物に設けられた仮設食堂は、外見こそ簡易なパネル張りだが、内部は意外にも整っていた。照明は暖色に設定され、金属製のテーブルと折り畳み椅子が並ぶ空間には、仄かなスパイスの香りが漂っていた。まるでここだけが、夜の闇から切り離された“安心”の場所のように演出されている。だがそれはあくまで、表向きの仮面にすぎなかった。
 結莉は、ステンレスのキッチンカウンターの前で黙々と手を動かしていた。エプロンの紐を腰にしっかり結び、オーブンから取り出したばかりのアップルパイに、刷毛で艶出しのグレーズを塗っていく。目の前には、仕込みに使ったリンゴの芯、カラメルの鍋、そしてひときわ目立つ銀色のパイ皿。特別な機能はない、ただの鏡面仕上げの調理器具――だが、今夜その皿は、重要な“目”となる。
 「焼き上がりました。夜食にどうぞ」
 振り向いた結莉が、アップルパイを手に歩み寄ると、仮設食堂の奥に座っていた男たちがどっと笑い声をあげた。肩を組んでいたり、手に酒瓶を持っていたり。彼らの油断が、まさにこの作戦の“隙”だった。
 「へえ、女の子が手作りかよ。いいじゃん、香りも本格的だな」
 「ねえちゃん、なんでまたこんなとこで料理してんの? 雇われた?」
 男たちのひとりがニヤつきながら言ったが、結莉は笑顔を崩さずに答えた。
 「はい。仕事ですから。……でも、せっかくなら“美味しい夜”を届けたいじゃないですか?」
 その言葉に、男たちはさらに笑い、パイを切り分けては頬張り始めた。香ばしい香りとバターの層がほどけるように口の中に広がる。だが、結莉の目は決して気を緩めていなかった。目線の先、天井の片隅には小さな黒い点――監視カメラがある。そのレンズの位置と角度、死角をすべて確認済みだった。
 銀色のパイ皿は、ちょうど天井のそれを反射する角度に配置してある。見上げずに、こちらからも“あちらの視線”を捉えるための、唯一の鏡。
 そこへ、紫緒梨がふらりと入ってきた。大きなマグカップを片手に、何気ない様子でカウンターに寄りかかる。
 「結莉さん、これ……おかわり、いただいてもいい?」
 「もちろんです。まだ温かいですよ」
 二人のやりとりは、あくまで穏やかだった。だが紫緒梨の目は一瞬だけ鋭く、パイ皿の位置と反射角を確認し、微かに顎で合図を送った。結莉がすぐに頷き、皿を少しだけ回転させる。その動きは、まるでテーブルマナーのように自然だった。
 パイ皿がゆっくりと回転し、その表面に映り込んだ天井カメラの姿が、徐々に角度を変えて露出する。レンズの奥に、誰かが確かに見ている。録画されている。そして、その“視線”がこの場のすべてを見ている――密輸証拠も、関係者の顔も、逃れようのない真実として。
 「……美味しいわ。けっこうな腕ね」
 紫緒梨がくすっと笑う。結莉も微笑み返す。
 「ありがとうございます。焼くの、久しぶりだったんです。でも、やっぱり……“誰かのために”って思うと、手が動くものですね」
 紫緒梨は無言で頷いた。そして、そっとポケットから小型のレンズキャップを取り出す。会話の流れの中でテーブルを拭くふりをしながら、パイ皿の中央にそっと置いた。
 カメラの反射は、そこで切り替わる。光学式の記録装置に、自動で切り取られた映像が送信される。それはもはやただの“偶然の映り込み”ではない。意図的に仕掛けられた“反転する真実”だった。
 沈黙が続いた。男たちはまだ笑っている。誰も、自分たちが今まさに記録され、証拠として回収されようとしていることに気づいていない。
 結莉はその中心に立ちながら、そっと目を伏せた。
 自分にできるのは、戦うことじゃない。暴くことでもない。でも、“見抜くこと”ならできる。“残すこと”なら。
 そして今夜、それは確かに果たされた。

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