雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚

【第十五章 友達が気を使ってくれる優しい夜風】

 披露会が終わった本社ビルは、まるで一度息を止めたかのように静まり返っていた。煌々と照らされていたホールの照明も落ち、スタッフたちの足音が一つ、また一つと遠ざかっていく。都会の闇に戻ったガラス張りの建物は、昼間の喧騒が幻だったかのように冷えた光を帯びていた。
 そんな屋上のヘリポートに、結莉はひとり立っていた。背中にカーディガンを羽織り、手すりに手をかけて夜の風を浴びる。東京の夜景が足元に広がっていた。街の灯りは瞬き、風に乗ってどこか遠くの笑い声やクラクションが届く。だが、ここは別世界だった。高く静かで、空に一番近い場所。
 結莉の喉は、うまく声が出ないほどに枯れていた。披露会の裏方として、映像の管理、音響の調整、段取りの最終確認――どれも神経を削るものだった。それでもやり遂げたという実感は、今も胸の奥で熱く残っている。
 「……疲れたな」
 ぽつりと呟いたその声は、自分でも驚くほどかすれていた。まるで誰かに“もう頑張らなくていいよ”と言ってほしかったのかもしれない。
 「はい、どうぞ」
 声がした。振り返ると、ヘリポートの入り口に高が立っていた。ジャケットの袖をまくり、どこか気の抜けた笑みを浮かべている。手には、コンビニのビニール袋と、冷たいスポーツドリンクのボトル。
 「お疲れ様。……ってか、その声。完全にやられてんじゃん」
 結莉は、思わず吹き出しそうになったが、喉がカラカラで笑うこともできず、肩を揺らすだけになった。
 「はいはい。言わなくても分かってる。喉、しみると思うけど、少しずつ飲んで」
 ボトルを受け取り、キャップをゆっくり回す。口に含んだ瞬間、冷たさと共に微かな甘みが喉を滑っていった。染みるというより、“届く”感覚。ひと口、またひと口――やっと息が通るようになった。
 「……ありがとう」
 ようやく出た声は掠れていたが、それでもちゃんと届いていた。高はふっと目を細め、結莉の隣に並んで手すりに肘をかけた。
 「この景色、すごいな。俺、てっきり会場の裏でバタバタしてるかと思ったら、君はこんなところで星眺めてたなんて。贅沢だなー」
 「……違うもん。逃げてただけ」
 言ったあとで、結莉は少しだけ顔を赤らめた。高がふと視線を動かす。照明に照らされた彼女の頬が、夜風に冷えてわずかに紅潮しているのが見えた。
 「逃げるって、いい言葉だよ。俺も結構、逃げてばっかりだったから。正面からぶつかるのって、疲れるしさ。でも……君はちゃんと立ってた。だから今ここにいる。えらいよ、すごいよ、ほんと」
 その言葉に、結莉は首を振ろうとしたが、途中でやめた。否定じゃなくて、受け止めていい気がしたから。
 「……ありがとう」
 静かな夜。ふたりの間には、言葉がなくても成立する時間が流れていた。街の灯りが瞬き、上空をヘリが一機だけ、遠くに通り過ぎていった。その音が消えるまで、誰も何も言わなかった。
 風がふっと吹いて、結莉の髪が顔にかかる。高が、何のためらいもなくその頬にそっと手を添えて、髪を耳の後ろにかけた。
 それは、何でもないようでいて、深く沁みる仕草だった。彼が結莉に触れたのは、たぶん初めてだった。
 「……やっぱり、頑張りすぎだよ。君って、そういうとこ、ずっと変わらない」
 それ以上、言葉は続かなかった。けれど結莉は分かっていた。今夜、高は自分の想いを――伝えるのではなく、“封じる”ためにここに来たのだということを。
 友達として。戦いの仲間として。隣にいるのに、踏み込まない距離。それが彼の優しさだった。
 風が、また静かに吹いた。夜が深まる。けれど、胸の奥にある熱だけは、冷める気配を見せなかった。

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