雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚
【第二章 放課後の足音、十年越しの再会】
火曜の夜。都心の喧騒を離れた電車が、静かに坂を登っていく。窓の外には、濃紺の空を背景に、点在する街灯の灯がまるで星座のように滲んでいた。結莉は車窓に映る自分の顔を見つめながら、背中にリュックを背負い直した。その中には、数冊のスケッチブックと、昔の写真が入っている。どれも埃をかぶっていたものだが、今夜はその“過去”に会いに行く夜だった。
電車が最寄り駅に滑り込むと、彼女は深呼吸してホームに降り立った。私立清祥学園。彼女が三年間通った、静かな丘の上にある学校。夜の校門はまるで別世界の入口のようで、門扉の向こうから吹いてくる風には、どこか懐かしい匂いが混じっていた。夜桜が舞い散る坂道を上がりながら、結莉は十年前の自分と肩を並べて歩くような感覚を覚える。青春なんて、とっくに終わったと思っていたのに、こうして戻ってくると、あの頃の足音が胸の奥からそっと響いてくる。
旧校舎の玄関は無人だった。だが、事前に連絡してあったおかげで鍵は開けてあると聞いていた。厚みのある木製の扉を押すと、軋む音とともに、ひんやりとした空気が流れ込む。照明は最小限しか灯っておらず、かすかな光に照らされた廊下は、まるで時間が止まったかのような静けさを纏っていた。床の木目、壁に掛けられた校歌の額縁、どれも当時のままだ。心が、じわりと熱くなる。
「……美術室、まだ奥にあったっけ」
呟きながら歩く。スニーカーの音が、静かな廊下にリズムを刻む。十年前と同じ放課後の音。それがこんなにも心に残っていたことに、自分で驚く。少し歩いた先に、懐かしい金属のドアが見えた。引き戸の取っ手を握る手が、ふと震える。この中に、あの頃の何かが残っている気がして、息を詰めた。
ガラリ、と音を立ててドアを開けると、冷たい空気とともに、絵の具の匂いが鼻をくすぐった。棚の上には、使い古されたパレットや乾いた筆がそのまま残っている。窓際には、あのとき使っていた共同制作のパネルがあった――少し色あせてはいるが、確かに彼女と、そして“あの子”と、もう一人の同級生と三人で描いたものだった。
懐かしさと切なさがないまぜになって、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。その瞬間だった。
――コツ、コツ。
教室の奥から、足音が響いた。心臓が跳ねる。誰かがいる。恐怖ではなく、なぜかその音に、聞き覚えがあった。
「……誰?」
声をかけると、静かにカーテンが揺れ、教壇の影から男が姿を現した。白いワイシャツに、少し乱れたネクタイ。だが、目元は十年前と変わらない。やや伏せがちに微笑む表情も、遠慮がちに肩をすぼめるような立ち姿も、すべてが懐かしかった。
「……山野高?」
自分の声が、どこか遠くから響いているように感じた。男――山野高は、ゆっくりと頷いた。やわらかく、それでいて逃げも隠れもしない視線で、まっすぐに結莉を見つめていた。
「久しぶり。十年ぶり、かな」
言葉はあっけなかったが、その一言に込められた歳月の重みが、教室の空気を震わせた。
「どうしてここに?」
「君が来ると思ったから。……いや、毎年、君が来るかもしれないって思って、僕はここにいたのかもしれない」
その言葉の意味を、結莉はすぐには理解できなかった。けれど、彼の瞳の奥には、ただの懐かしさではないものが確かに宿っていた。美術室の窓に反射する月光が、彼の横顔を淡く照らす。それはまるで、時間の向こうからやってきた幻のようだった。
続きます。
――続きです。引き続き、情景描写・心理描写に重点を置き、節分けせずに展開します。
「まさか、ずっとこの学校に?」
問いかけると、高は少しだけ笑った。過去を語るにはあまりにも穏やかすぎるその微笑みが、結莉の胸にちくりと刺さる。
「卒業してから、地元の大学に行ったけど……この学園にはずっと関わってた。ボランティアって名目だけど、ほとんど週末はここの整備を手伝ってたんだ。古い校舎が残ってるのは、地元の保存運動のおかげでもあるけど、俺もずっと反対意見を出し続けてた。……このパネルも、いつか君がまた見に来るんじゃないかって思って、ちゃんと梱包し直して、陽が当たらない場所に移してた」
彼はそう言いながら、パネルにそっと手を触れた。手のひらが布越しに木の質感を確かめるように滑り、その動きにはまるで“作品”への愛情が染み込んでいた。
「……ありがとう。守ってくれてたんだね、ずっと」
結莉の声は、自然と震えていた。何に対して感情が動いているのか、言葉にはできなかった。ただ、目の前の男が、十年という時間をかけて“残して”いてくれたという事実に、胸の奥が満たされていくのを感じた。
高は、ゆっくりと頷いた。そして、おもむろに懐から一枚の紙を取り出す。それは、折り目のついた古びたA4用紙だった。差し出されたそれを受け取ると、そこには見覚えのあるフォントと、宛先だけが記されていた。
「……これ、メール?」
「うん。卒業してから、毎年送ってた。『ちゃんと保管してるよ』とか、『照明をLEDに変えた』とか……ほんの些細なことばっかりだけど。送信済みフォルダに、君宛のアドレスが今も残ってる。でも……多分、届いてなかったんだよな。宛先エラーにはならなかったけど、ある年から返信がぱったり来なくて」
結莉は言葉を失った。スマホを機種変更したとき、メールアドレスも変わっていた。通知を設定し直すのを忘れ、そのまま――あのアドレスに、誰かがメッセージを送っているなんて、思いもしなかった。
「……私、変えたんだ。アドレス。ちゃんと伝えずに……ごめん」
高は首を振った。
「いいんだ。それでも俺、勝手に送ってただけだから。でも、届いてなかったって分かって、ちょっと安心した。ずっと、無視されてるんじゃないかって、心のどこかで思ってたから」
その声は冗談めかしていたが、まなざしの奥にわずかな翳りがあった。結莉は無意識に一歩、彼に近づいていた。かつて教室の隅で、静かに筆を走らせていた高。そのときと同じ距離感。けれど今夜は、それがほんの少し違っていた。
「ありがとうって、ちゃんと言いたかった。あのときの共同制作、私にとっても……本当に大切だったの。……でも、伝えそびれたままで……」
気づけば、胸の奥にずっと張りついていた言葉が、自然とこぼれ出ていた。美術室の窓の外では、夜風が桜の花びらをひとひら運んでいた。ガラス越しに、それがふわりと舞い上がるのが見えた。春の夜の静けさの中、二人の間に流れる空気が、ゆっくりと変わっていくのを結莉は感じていた。
それは懐かしさだけではない。十年という時間を経て、再び交差した二つの道が、何か新しい景色を見せてくれるような、そんな予感だった。
電車が最寄り駅に滑り込むと、彼女は深呼吸してホームに降り立った。私立清祥学園。彼女が三年間通った、静かな丘の上にある学校。夜の校門はまるで別世界の入口のようで、門扉の向こうから吹いてくる風には、どこか懐かしい匂いが混じっていた。夜桜が舞い散る坂道を上がりながら、結莉は十年前の自分と肩を並べて歩くような感覚を覚える。青春なんて、とっくに終わったと思っていたのに、こうして戻ってくると、あの頃の足音が胸の奥からそっと響いてくる。
旧校舎の玄関は無人だった。だが、事前に連絡してあったおかげで鍵は開けてあると聞いていた。厚みのある木製の扉を押すと、軋む音とともに、ひんやりとした空気が流れ込む。照明は最小限しか灯っておらず、かすかな光に照らされた廊下は、まるで時間が止まったかのような静けさを纏っていた。床の木目、壁に掛けられた校歌の額縁、どれも当時のままだ。心が、じわりと熱くなる。
「……美術室、まだ奥にあったっけ」
呟きながら歩く。スニーカーの音が、静かな廊下にリズムを刻む。十年前と同じ放課後の音。それがこんなにも心に残っていたことに、自分で驚く。少し歩いた先に、懐かしい金属のドアが見えた。引き戸の取っ手を握る手が、ふと震える。この中に、あの頃の何かが残っている気がして、息を詰めた。
ガラリ、と音を立ててドアを開けると、冷たい空気とともに、絵の具の匂いが鼻をくすぐった。棚の上には、使い古されたパレットや乾いた筆がそのまま残っている。窓際には、あのとき使っていた共同制作のパネルがあった――少し色あせてはいるが、確かに彼女と、そして“あの子”と、もう一人の同級生と三人で描いたものだった。
懐かしさと切なさがないまぜになって、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。その瞬間だった。
――コツ、コツ。
教室の奥から、足音が響いた。心臓が跳ねる。誰かがいる。恐怖ではなく、なぜかその音に、聞き覚えがあった。
「……誰?」
声をかけると、静かにカーテンが揺れ、教壇の影から男が姿を現した。白いワイシャツに、少し乱れたネクタイ。だが、目元は十年前と変わらない。やや伏せがちに微笑む表情も、遠慮がちに肩をすぼめるような立ち姿も、すべてが懐かしかった。
「……山野高?」
自分の声が、どこか遠くから響いているように感じた。男――山野高は、ゆっくりと頷いた。やわらかく、それでいて逃げも隠れもしない視線で、まっすぐに結莉を見つめていた。
「久しぶり。十年ぶり、かな」
言葉はあっけなかったが、その一言に込められた歳月の重みが、教室の空気を震わせた。
「どうしてここに?」
「君が来ると思ったから。……いや、毎年、君が来るかもしれないって思って、僕はここにいたのかもしれない」
その言葉の意味を、結莉はすぐには理解できなかった。けれど、彼の瞳の奥には、ただの懐かしさではないものが確かに宿っていた。美術室の窓に反射する月光が、彼の横顔を淡く照らす。それはまるで、時間の向こうからやってきた幻のようだった。
続きます。
――続きです。引き続き、情景描写・心理描写に重点を置き、節分けせずに展開します。
「まさか、ずっとこの学校に?」
問いかけると、高は少しだけ笑った。過去を語るにはあまりにも穏やかすぎるその微笑みが、結莉の胸にちくりと刺さる。
「卒業してから、地元の大学に行ったけど……この学園にはずっと関わってた。ボランティアって名目だけど、ほとんど週末はここの整備を手伝ってたんだ。古い校舎が残ってるのは、地元の保存運動のおかげでもあるけど、俺もずっと反対意見を出し続けてた。……このパネルも、いつか君がまた見に来るんじゃないかって思って、ちゃんと梱包し直して、陽が当たらない場所に移してた」
彼はそう言いながら、パネルにそっと手を触れた。手のひらが布越しに木の質感を確かめるように滑り、その動きにはまるで“作品”への愛情が染み込んでいた。
「……ありがとう。守ってくれてたんだね、ずっと」
結莉の声は、自然と震えていた。何に対して感情が動いているのか、言葉にはできなかった。ただ、目の前の男が、十年という時間をかけて“残して”いてくれたという事実に、胸の奥が満たされていくのを感じた。
高は、ゆっくりと頷いた。そして、おもむろに懐から一枚の紙を取り出す。それは、折り目のついた古びたA4用紙だった。差し出されたそれを受け取ると、そこには見覚えのあるフォントと、宛先だけが記されていた。
「……これ、メール?」
「うん。卒業してから、毎年送ってた。『ちゃんと保管してるよ』とか、『照明をLEDに変えた』とか……ほんの些細なことばっかりだけど。送信済みフォルダに、君宛のアドレスが今も残ってる。でも……多分、届いてなかったんだよな。宛先エラーにはならなかったけど、ある年から返信がぱったり来なくて」
結莉は言葉を失った。スマホを機種変更したとき、メールアドレスも変わっていた。通知を設定し直すのを忘れ、そのまま――あのアドレスに、誰かがメッセージを送っているなんて、思いもしなかった。
「……私、変えたんだ。アドレス。ちゃんと伝えずに……ごめん」
高は首を振った。
「いいんだ。それでも俺、勝手に送ってただけだから。でも、届いてなかったって分かって、ちょっと安心した。ずっと、無視されてるんじゃないかって、心のどこかで思ってたから」
その声は冗談めかしていたが、まなざしの奥にわずかな翳りがあった。結莉は無意識に一歩、彼に近づいていた。かつて教室の隅で、静かに筆を走らせていた高。そのときと同じ距離感。けれど今夜は、それがほんの少し違っていた。
「ありがとうって、ちゃんと言いたかった。あのときの共同制作、私にとっても……本当に大切だったの。……でも、伝えそびれたままで……」
気づけば、胸の奥にずっと張りついていた言葉が、自然とこぼれ出ていた。美術室の窓の外では、夜風が桜の花びらをひとひら運んでいた。ガラス越しに、それがふわりと舞い上がるのが見えた。春の夜の静けさの中、二人の間に流れる空気が、ゆっくりと変わっていくのを結莉は感じていた。
それは懐かしさだけではない。十年という時間を経て、再び交差した二つの道が、何か新しい景色を見せてくれるような、そんな予感だった。