雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚
【第三章 “ありがとう”と言えなかった親友の最期】
金曜の深夜。ビル街の明かりが遠ざかり、静まり返った病院の屋上に、小さな灯りがぽつりと灯っていた。夜風が優しく吹き抜ける空間は、まるでこの世界と現実の狭間にあるかのように、どこか透明な静けさに包まれていた。無機質な金属の手すりに絡まる藤の蔓が、季節の終わりを告げるように風にそよぎ、足元には昼の陽射しを吸い込んだ石畳がひんやりと肌を冷やしていた。
結莉はその庭園の隅に立ち尽くし、ゆっくりと空を見上げていた。東京の空はいつも騒がしくて、星なんて滅多に見えないはずなのに、今夜はひとつだけ、はっきりと輝く星があった。それを見つけた瞬間、胸の奥が、じんわりと痛み出した。誰かの名前を呼びたくなる衝動を、喉の奥で押し殺す。
「ごめんね、遅くなった」
振り返ると、そこに高が立っていた。手には、何かを大事に抱えるように持っている。薄く、古びた布で丁寧に包まれたそれは、何か大切なものを思わせる存在感を放っていた。彼は黙ったまま、ゆっくりと結莉の隣に立つ。そして、布を解いた。
中から現れたのは、一冊のスケッチブックだった。表紙は擦れて色が褪せており、角には癖のある折れ跡がついている。何度も、何度も開かれ、閉じられた痕跡だった。
「……これ」
「琴葉の。最期に、君に渡してほしいって、俺に託してた」
その名前を聞いた瞬間、結莉の心の中で、凍っていた何かが軋んだ。琴葉――高校時代、どんなときも隣にいてくれた親友。いつも笑って、時に泣いて、でも誰よりも強くあろうとしていた。そんな彼女が、病に倒れたという報せを受けたのは、ちょうど海外のプロジェクトに出発する前夜だった。間に合わなかった。すぐ戻ると伝えたけれど、病状は想像以上に進んでいて――戻ったときには、もう彼女は、静かに眠っていた。
「……どうして、今まで渡さなかったの?」
問いかける声が震えていたのは、怒りではなかった。悔しさでもない。自分の中に湧いてくる感情が、何なのかも分からなかった。
高はしばらく口をつぐんだまま、視線をスケッチブックに落とし、それから、ぽつりとこぼした。
「君が、まだ“ありがとう”を言える顔じゃなかったから」
結莉の目が、大きく見開かれた。
「……え?」
「琴葉が亡くなった日。君が病室に間に合わなかったって知った時、君の顔を思い出した。あの頃の君は、いつも何かに追われてて、悲しむ時間さえ自分に許さなかった。そんな君が、琴葉の想いを受け取ったら、きっともっと自分を責める。だから……十年ぶりに再会した今ならって思った。君が、やっと“泣けるようになった”って、思えたから」
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。誰にも見せないと決めていた“後悔”という名の棘が、いまやっと疼き出した気がした。
「……そんなの、勝手だよ」
呟くように言いながら、結莉はスケッチブックを手に取った。ページをめくると、そこには――琴葉の線があった。柔らかく、まっすぐで、でもどこか切ない線。花のスケッチ。鳥の羽根。教室の隅に咲いたチューリップ。どの絵にも、小さく日付と短い言葉が添えられている。
“今日も結莉が、頑張ってた。すごいな”
“失敗したって、結莉は自分を嫌わないでほしいな”
“いつか、ちゃんと“ありがとう”って言いたいな”
そこには、結莉の知らなかった琴葉の気持ちが、静かに、しかし確かに息づいていた。
「……ずるいよ、琴葉。そんなの、いまさら言われたら……」
視界が滲んで、星の光が歪んだ。頬に流れたものを拭おうともしないまま、結莉はその場に膝をついた。震える肩を、そっと支える手がある。それは高だった。何も言わず、彼はただ隣にしゃがみ、結莉の手をそっと握った。
「ここで泣いていいよ。誰も見てない。……君の涙が、ここにいるって証になるなら」
その声は、耳ではなく心の奥に届いた。あたたかい。涙に触れた手が、こんなにも優しいと知っていたら、もっと早く泣けたのに――そう思った。
そしてそのとき、庭園の出入り口の影に、背の高い人物が立っていた。結莉は気づかない。だが千景は、ふと風に吹かれた花の香りに顔を上げ、その姿を遠くからじっと見つめていた。結莉が初めて誰かに涙を見せたことを、彼は見届けた。その事実が、千景の表情をわずかに揺らした。
結莉はその庭園の隅に立ち尽くし、ゆっくりと空を見上げていた。東京の空はいつも騒がしくて、星なんて滅多に見えないはずなのに、今夜はひとつだけ、はっきりと輝く星があった。それを見つけた瞬間、胸の奥が、じんわりと痛み出した。誰かの名前を呼びたくなる衝動を、喉の奥で押し殺す。
「ごめんね、遅くなった」
振り返ると、そこに高が立っていた。手には、何かを大事に抱えるように持っている。薄く、古びた布で丁寧に包まれたそれは、何か大切なものを思わせる存在感を放っていた。彼は黙ったまま、ゆっくりと結莉の隣に立つ。そして、布を解いた。
中から現れたのは、一冊のスケッチブックだった。表紙は擦れて色が褪せており、角には癖のある折れ跡がついている。何度も、何度も開かれ、閉じられた痕跡だった。
「……これ」
「琴葉の。最期に、君に渡してほしいって、俺に託してた」
その名前を聞いた瞬間、結莉の心の中で、凍っていた何かが軋んだ。琴葉――高校時代、どんなときも隣にいてくれた親友。いつも笑って、時に泣いて、でも誰よりも強くあろうとしていた。そんな彼女が、病に倒れたという報せを受けたのは、ちょうど海外のプロジェクトに出発する前夜だった。間に合わなかった。すぐ戻ると伝えたけれど、病状は想像以上に進んでいて――戻ったときには、もう彼女は、静かに眠っていた。
「……どうして、今まで渡さなかったの?」
問いかける声が震えていたのは、怒りではなかった。悔しさでもない。自分の中に湧いてくる感情が、何なのかも分からなかった。
高はしばらく口をつぐんだまま、視線をスケッチブックに落とし、それから、ぽつりとこぼした。
「君が、まだ“ありがとう”を言える顔じゃなかったから」
結莉の目が、大きく見開かれた。
「……え?」
「琴葉が亡くなった日。君が病室に間に合わなかったって知った時、君の顔を思い出した。あの頃の君は、いつも何かに追われてて、悲しむ時間さえ自分に許さなかった。そんな君が、琴葉の想いを受け取ったら、きっともっと自分を責める。だから……十年ぶりに再会した今ならって思った。君が、やっと“泣けるようになった”って、思えたから」
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。誰にも見せないと決めていた“後悔”という名の棘が、いまやっと疼き出した気がした。
「……そんなの、勝手だよ」
呟くように言いながら、結莉はスケッチブックを手に取った。ページをめくると、そこには――琴葉の線があった。柔らかく、まっすぐで、でもどこか切ない線。花のスケッチ。鳥の羽根。教室の隅に咲いたチューリップ。どの絵にも、小さく日付と短い言葉が添えられている。
“今日も結莉が、頑張ってた。すごいな”
“失敗したって、結莉は自分を嫌わないでほしいな”
“いつか、ちゃんと“ありがとう”って言いたいな”
そこには、結莉の知らなかった琴葉の気持ちが、静かに、しかし確かに息づいていた。
「……ずるいよ、琴葉。そんなの、いまさら言われたら……」
視界が滲んで、星の光が歪んだ。頬に流れたものを拭おうともしないまま、結莉はその場に膝をついた。震える肩を、そっと支える手がある。それは高だった。何も言わず、彼はただ隣にしゃがみ、結莉の手をそっと握った。
「ここで泣いていいよ。誰も見てない。……君の涙が、ここにいるって証になるなら」
その声は、耳ではなく心の奥に届いた。あたたかい。涙に触れた手が、こんなにも優しいと知っていたら、もっと早く泣けたのに――そう思った。
そしてそのとき、庭園の出入り口の影に、背の高い人物が立っていた。結莉は気づかない。だが千景は、ふと風に吹かれた花の香りに顔を上げ、その姿を遠くからじっと見つめていた。結莉が初めて誰かに涙を見せたことを、彼は見届けた。その事実が、千景の表情をわずかに揺らした。