雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚

【第四章 草原にそびえる奇妙な石碑のスケッチ】

 月曜の朝、都心に立つ高層ビル群は、どこかよそよそしい表情で空を見上げていた。雲一つない空には春の光が注ぎ、ビルの窓という窓にその反射がちらちらと踊っている。東京・丸の内の中心にそびえる広田グループの本社ビルは、その中でも一際堂々とした佇まいで、まるでこの都市の脈を司る心臓部のように静かに鼓動を刻んでいた。
 その役員フロアは、ガラスと石材を贅沢に使った設計で、インテリアには季節の花がさりげなく飾られている。結莉はその一角に立ち、テーブルの上に並べられた資料にじっと目を落としていた。緊張で手のひらがじっとりと汗ばんでいるのがわかる。目の前には、先日受け取った琴葉のスケッチブックの複写。その一枚に描かれていた“草原にそびえる奇妙な石碑”が、静かに場の空気を支配していた。
 石碑は中央に縦長の裂け目のような模様を持ち、その周囲を取り囲むように円形の文様が刻まれている。素人目には何かのモニュメントのようにも見えるが、その存在感は圧倒的だった。まるで遥か昔からそこに立ち続け、風と砂を知っているものだけが醸し出せる“時間の質感”がそこにあった。
 「やはり……これ、うちのモンゴル事業地のランドマークと一致しています」
 静かに、しかし確信を持った声が部屋の中に落ちた。声の主は広田千景の秘書、上西紫緒梨だった。結莉が顔を上げると、彼女は細身の眼鏡を直しながら数枚の写真資料をそっと差し出してくる。その中には、琴葉の描いた石碑と酷似した構造物が写っていた。空の下に広がるモンゴルの草原。その中心に、風を割って立つ巨大な石の影。言葉にならない既視感が、結莉の背筋をそっとなぞる。
 「私どものモンゴル事業は、元々は鉱物調査を皮切りに始まったものでしたが、祖父――先代の広田和臣が生前、“あの地には未発見の遺構が眠っている”と信じておりまして。実際、十年前の砂漠調査でこの石碑が発見されて以来、周辺地域は広田グループが保護エリアとして確保しています」
 紫緒梨の言葉に、結莉は思わず視線を千景へと向けた。彼は窓際のデスクにもたれかかりながら、遠くを見ていた。その瞳には、今この東京にはない色が映っているようだった。
 「この石碑は、僕の祖父の“遺志”でもあるんだ。文明の記憶を守る者になれ、って言われて育った。……でも、正直に言うと、最初はその意味が全くわからなかった。父は企業拡大の現実主義者だったし、僕自身、遺跡よりもマーケットの動向ばかり見てた。だけど……この石碑を初めて目にしたとき、不思議と涙が出たんだよ。まるで呼ばれたみたいに」
 その声には、ほんのかすかな揺らぎが混じっていた。普段、冷静でスマートな彼の輪郭が、その瞬間だけ微かにほつれたように感じられた。結莉は息を飲んだ。琴葉が描いた“あの絵”が、偶然ではなく、彼とこの場所、そして今をつないでいる。そう思うと、胸の奥がそっと熱くなった。
 「君に、同行してもらえないか?」
 唐突に千景が言った。視線が、真っ直ぐに結莉を射抜く。その強さと真剣さに、彼女は思わず身を固くする。
 「モンゴルへ? 私が、ですか……?」
 「君の目で、あの石碑を見てほしい。そして、あの土地に相応しい空間を設計してほしい。君のデザインが、この石碑を、そして文明の記憶を守る鍵になる」
 紫緒梨が無言で頷く。すべてが整えられているのだと、その沈黙が告げていた。結莉は心の中で何度も反芻する。モンゴル。草原。石碑。琴葉の絵。そして、千景の言葉――“文明の記憶を守る者になれ”。
 自分に、できるのだろうか。不安は確かにある。けれど、琴葉が最後に描いたあの絵を見たときの気持ちは、確かに本物だった。彼女が自分に託したものが、無意味だったはずがない。何より、結莉自身が、あの石碑を見てみたいと、今では心から思っていた。
 「……行きます」
 短く、しかし確かな声で結莉は答えた。その瞬間、部屋に流れていた空気が、ぱたりと変わる。千景の口元がわずかに綻び、紫緒梨は静かにタブレットを操作し始めた。モンゴル行きの手配は、すでに始まっていたのだ。

< 4 / 20 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop