雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚

【第六章 疑いを抱くCEO】

 成田空港第2ターミナルの最上階、関係者専用のVIPラウンジには、外の喧騒とは別世界の静寂が満ちていた。落ち着いたグレーを基調としたインテリア、低く流れるクラシックの弦楽四重奏。窓際のパーテーション越しに並んだラウンジチェアでは、幾人かのビジネスマンたちが新聞を広げているが、その誰もが周囲に無関心なふりをして、互いの距離感を保っていた。
 広田千景は、そんな空間の一角で足を組み、静かにカップを口に運んでいた。光沢を抑えたスーツの襟元に差されたネイビーのタイピンが、彼の完璧さをさらに際立たせる。指先でリズムを刻むようにカップの取っ手を軽くなぞりながら、彼は時折ガラス越しの滑走路に視線を送った。ジェットの音が遠くでくぐもっている。だが、それすらもこの空間には届かない。
 少し遅れて、結莉がラウンジへ入ってきた。シンプルなトレンチコートに、ベージュのストール。落ち着いた装いだが、その顔にはわずかな緊張が浮かんでいた。搭乗のために整えた書類を鞄から出しながらも、その視線はどこか宙を泳いでいる。
 「お待たせしました」
 結莉が丁寧に頭を下げると、千景は笑みを浮かべずに手で座るよう促した。その無言の仕草が、いつもより少しだけ冷たく感じられて、結莉は戸惑いながらも向かいのソファに腰を下ろした。
 「随分早く決断したね」
 千景の口から出た言葉は、まるで問いではないように、唐突で硬質だった。
 「……はい。琴葉の絵を見たとき、あの場所に行くべきだと思いました。私が……できることがあるかもしれないって」
 結莉の声は静かだったが、芯があった。だがその答えを聞いても、千景の表情は変わらない。彼は、ほんのわずかに身を乗り出し、カップをテーブルに戻すと、言った。
 「その“できること”って、たとえば情報収集とか? あるいは、遺跡の詳細を外部に流すようなこと?」
 空気が凍りついたように、結莉の手が止まった。何を言われたのか、理解するまで数秒かかった。まるで地面の下から、突然鋭利な氷柱が突き上げてきたような感覚。言葉が一瞬だけ、肺に引っかかった。
 「……どういう意味、ですか?」
 「そのままの意味だよ。最近、遺跡保護区に関する情報が、社外に漏れている。まだ公表していないはずの調査エリアや保護区画の緯度まで、誰かが外部に伝えている。それも、ごく限られた人間しか知らない情報だ」
 千景の瞳が細められる。淡い色合いを帯びたその瞳には、どこか氷のような光が宿っていた。疑っている、というよりは――“試している”。そう、結莉は直感した。これは彼の試練なのだ。真偽の確認ではない。“信じるに値するか”を見極めようとしている。
 「……私が、スパイかもしれないと?」
 口に出したその言葉が、あまりにも現実離れしていて、思わず自嘲めいた笑みが漏れそうになる。けれど結莉は飲み込んだ。目の前の男が、遊びや冗談でこんなことを言う人間ではないことを、彼女はもう知っていた。
 「そう疑う理由が、あるんですか?」
 「疑ってるとは言ってない。けれど、見極めなければならない。君は“偶然”琴葉のスケッチを持っていて、偶然それが遺跡の入り口だった。偶然、君に関わった直後から、漏洩が始まった」
 千景は冷静だった。むしろ、結莉の心の動きを丹念に観察すること自体を楽しんでいるような――そんな静かな圧力があった。
 「……そんな偶然、重なるわけがないって?」
 「僕は“偶然”という言葉が嫌いなんだ。少なくとも、僕の周囲においてはね」
 結莉はふっと息を吸い込んだ。痛いほどの静けさのなか、心臓の鼓動だけが耳に響く。
 「だったら……私が今ここにいるのは、運命だと信じてください。私はあなたの背中を照らす“灯”になりたい。たとえ、その光が小さくても、暗闇に負けないように」
 沈黙が落ちた。二人の間の空間が、まるで張り詰めた弦のように、ぎりぎりと鳴っている。そしてようやく、千景は小さく目を細め、笑みの輪郭を浮かべた。
 「……その言葉、覚えておくよ」
 まるで許しを与えるような、けれどすべてを預けたわけではない――そんな千景の表情に、結莉は微かに息を吐いた。彼女の“本気”が、ようやく届いた瞬間だった。
 そのとき、ラウンジにアナウンスが流れる。搭乗時刻が近づいている。二人はほぼ同時に席を立ち、それぞれ手荷物を持った。並んで歩きながらも、視線は交わさない。けれど確かに、今の彼らの間には“試された信頼”という名前の糸が、結ばれていた。

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