雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚
【第七章 穏やかな昼下がり、雲の帆を追いかけて】
地平線が、どこまでも続いていた。空と大地の境目はかすかに揺らぎ、遠くの草原には蜃気楼のような銀色のゆらめきが見える。モンゴルの大地は、東京とはまるで違う時間の流れを持っていた。時計を見なくても太陽の高さで昼を知り、風の冷たさで夕方の近さを悟る。そんな世界の中に、結莉は今、身を委ねていた。
滞在初日。午前中の視察を終えた千景が、突然「昼寝しよう」と言い出したとき、結莉は本気か冗談か判断しかねた。だが案内された草原の一角には、少しだけ窪んだ、風を避けられる場所があり、そこで二人は、何も遮るもののない空を見上げていた。
「ねえ、雲が帆に見えない?」
千景の声が、横からふわりと届く。結莉は寝転がったまま、空に浮かぶ雲の一つを指差した。ぽっかりと浮かぶ白い塊は、確かに帆船のように見えなくもない。
「そう言われると……ほら、あっちは帆じゃなくてクジラに見える。頭の上から噴き出してるのが潮みたい」
千景が指をさす先には、長く尾を引く雲が風に流れていた。その形が少しずつ変化していくのを、二人は無言で眺める。東京では、ビルに切り取られて見上げるしかなかった空。それが今、自分たちをまるごと包み込んでいる。その事実が、心をほどいていく。
「こうやって雲を眺めるのって……いつぶりだろう」
結莉の言葉に、千景が短く息を吐いて笑った。
「僕は多分、小学生のとき以来かな。校庭で昼寝して、先生に怒られたのが最後。……君は?」
「美大の卒業制作で、空をテーマにしたとき。何日も屋上に通って、雲の輪郭をスケッチしてた」
「そっか。じゃあ、今日の空も君の作品になる?」
「……かもね。でも、今日の空は描けないかも。なんか、きれいすぎて怖い」
「怖い?」
「うん。今、この瞬間をちゃんと残さなきゃって思えば思うほど、指が動かなくなる。……忘れたくないのに、形にできないって、悔しい」
その呟きに、千景はしばらく黙っていた。やがて、静かに言葉を継ぐ。
「でも、それって……君がちゃんと、今を生きてるってことじゃない?」
結莉は少し目を開けて、横目で千景を見る。彼の輪郭が、逆光で淡く光っていた。草に片肘をついて寝転びながら、彼は空を見つめていたが、その目はどこか、結莉の心の奥を見透かしているようだった。
「都会ってさ、色がないと思わない? いや、正確には、色が“記号”になってる。赤は危険、緑は進め、白は清潔、黒は格式。意味が先にあって、感情があとから追いつく。……でもここには、意味のない色がある。風に混じった黄土の匂いとか、夕陽の金色とか。そういうの、君の目で見て、吸い込んでほしい」
その言葉が、風に運ばれて胸に落ちた。意味のない色。記号じゃない感情。それはまさに、結莉がずっと求めていたものだったのかもしれない。目を閉じれば、草の匂いと風の音、そして隣にいる人の呼吸さえ感じられる。東京では失っていた“肌で生きている”という実感が、ここにはあった。
ふと、手のひらを空にかざしてみた。透き通る光の中に、指の隙間から空がこぼれてくる。結莉がそうしていると、千景の手がそっと自分の手に重なった。やわらかく、でも確かな体温を持って。
「……この空間を、君と見られてよかった」
千景の声は低く、だがどこまでも静かだった。その言葉に、何も言い返せなかった。ただ心臓が、静かに跳ねる音だけが、自分の中で繰り返されていた。
それは恋とか、そういう分かりやすい言葉よりも、もっと静かで深く、温かいものだった。触れた指先を離したくないと思ったのは、いつぶりだろう。どこにも急がず、どこにも属さない“今”だけが、この草原に流れていた。
滞在初日。午前中の視察を終えた千景が、突然「昼寝しよう」と言い出したとき、結莉は本気か冗談か判断しかねた。だが案内された草原の一角には、少しだけ窪んだ、風を避けられる場所があり、そこで二人は、何も遮るもののない空を見上げていた。
「ねえ、雲が帆に見えない?」
千景の声が、横からふわりと届く。結莉は寝転がったまま、空に浮かぶ雲の一つを指差した。ぽっかりと浮かぶ白い塊は、確かに帆船のように見えなくもない。
「そう言われると……ほら、あっちは帆じゃなくてクジラに見える。頭の上から噴き出してるのが潮みたい」
千景が指をさす先には、長く尾を引く雲が風に流れていた。その形が少しずつ変化していくのを、二人は無言で眺める。東京では、ビルに切り取られて見上げるしかなかった空。それが今、自分たちをまるごと包み込んでいる。その事実が、心をほどいていく。
「こうやって雲を眺めるのって……いつぶりだろう」
結莉の言葉に、千景が短く息を吐いて笑った。
「僕は多分、小学生のとき以来かな。校庭で昼寝して、先生に怒られたのが最後。……君は?」
「美大の卒業制作で、空をテーマにしたとき。何日も屋上に通って、雲の輪郭をスケッチしてた」
「そっか。じゃあ、今日の空も君の作品になる?」
「……かもね。でも、今日の空は描けないかも。なんか、きれいすぎて怖い」
「怖い?」
「うん。今、この瞬間をちゃんと残さなきゃって思えば思うほど、指が動かなくなる。……忘れたくないのに、形にできないって、悔しい」
その呟きに、千景はしばらく黙っていた。やがて、静かに言葉を継ぐ。
「でも、それって……君がちゃんと、今を生きてるってことじゃない?」
結莉は少し目を開けて、横目で千景を見る。彼の輪郭が、逆光で淡く光っていた。草に片肘をついて寝転びながら、彼は空を見つめていたが、その目はどこか、結莉の心の奥を見透かしているようだった。
「都会ってさ、色がないと思わない? いや、正確には、色が“記号”になってる。赤は危険、緑は進め、白は清潔、黒は格式。意味が先にあって、感情があとから追いつく。……でもここには、意味のない色がある。風に混じった黄土の匂いとか、夕陽の金色とか。そういうの、君の目で見て、吸い込んでほしい」
その言葉が、風に運ばれて胸に落ちた。意味のない色。記号じゃない感情。それはまさに、結莉がずっと求めていたものだったのかもしれない。目を閉じれば、草の匂いと風の音、そして隣にいる人の呼吸さえ感じられる。東京では失っていた“肌で生きている”という実感が、ここにはあった。
ふと、手のひらを空にかざしてみた。透き通る光の中に、指の隙間から空がこぼれてくる。結莉がそうしていると、千景の手がそっと自分の手に重なった。やわらかく、でも確かな体温を持って。
「……この空間を、君と見られてよかった」
千景の声は低く、だがどこまでも静かだった。その言葉に、何も言い返せなかった。ただ心臓が、静かに跳ねる音だけが、自分の中で繰り返されていた。
それは恋とか、そういう分かりやすい言葉よりも、もっと静かで深く、温かいものだった。触れた指先を離したくないと思ったのは、いつぶりだろう。どこにも急がず、どこにも属さない“今”だけが、この草原に流れていた。