雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚
【第八章 見逃された証言】
夜の草原は、昼間とはまったく違う顔をしていた。風は冷たく、地表を這うように音もなく吹き抜ける。満天の星空はどこまでも深く、夜露に濡れたテントの屋根には、月光がかすかに銀色の輪郭を描いていた。発掘現場の一角に設営された調査用のテントには、ランタンの仄かな明かりだけが灯っていた。その光に照らされながら、紫緒梨はテーブルに並んだ資料の束を一枚ずつ、丁寧にめくっていた。
すぐそばには進之祐がいた。彼はノートパソコンを開いたまま、モニターに映る古文書の解読ソフトを無言で操作している。彼の表情はいつも通り静かで、眼鏡の奥の視線は淡々とスクロールバーを追っていた。けれどその指先は、今夜に限ってわずかに震えていた。庄はその隣で、ポータブルのコンロに手をかけ、湯を沸かしていた。空になったコーラ缶を片手に、何度目かのため息を吐きながらも、口元には笑みを浮かべていた。
「しかし、相変わらず暗号みたいな文字だよなあ、こいつ。見てると頭痛くなる」
庄が紙をひらりと持ち上げると、進之祐がちらと目をやる。
「それ、発掘日誌の断片。十年前の調査隊が使ってたやつだよ。漢字と英数字が混ざってるけど、いくつかの符号が変だ。たぶん、単なる記録じゃない」
紫緒梨は声を発さず、ページの一枚に目を留めた。そこには、うっすらと鉛筆で書かれた走り書きのような文字。枠外に小さく、こう記されていた。
“Shin - 5月18日 - S.T.構内 第2ルート封鎖済”
その瞬間、進之祐の指が止まった。空気がぴたりと凍る。庄がゆっくりと眉を上げる。
「……Shin? 進之祐、お前のことじゃないよな」
誰よりも早く言葉を飲み込んだのは、当の本人だった。彼はその書き込みに視線を落としたまま、喉元をぎゅっと詰まらせるように呼吸を整える。
「これは……兄のサインだ。真之助。十年前、調査団の一員だった。研究者じゃなくて、地質学専門の技術補助としてね。でも、あのあと急に海外に転職して、それ以来、連絡も取ってない」
紫緒梨がゆっくりと顔を上げ、進之祐の横顔を見つめる。普段は感情の起伏を見せない彼の頬に、微かだが明らかな緊張が浮かんでいた。手元のキーボードを操作しようとしたその指が、小さく震えていた。
「……進之祐」
紫緒梨の声は柔らかく、それでいて鋭さを帯びていた。彼は何も言わず、別の資料を探るふりをした。だが、その動作があまりに不自然で、紫緒梨にはすぐにわかった。彼は今、何かを“隠そう”としている。
「進之祐、何を見たの?」
問いかけに答えず、彼はページを繰ったまま、あるファイルをそっと自分の脇に引き寄せた。表紙に書かれたサイン。そこに記された“Shin”の文字を、指でなぞりながら、彼は低くつぶやいた。
「……これ以上、掘り下げたら、兄が……」
言葉の続きを飲み込んだ。顔を伏せた進之祐の姿に、庄が初めて、真剣な表情で立ち上がる。
「なあ。お前、まさか証拠を……」
そのとき、紫緒梨は言葉を挟まず、ただ一つの動作をした。コンロで沸いた湯をポットに注ぎながら、傍らの棚から古びたランタンを取り出し、それを進之祐の前にそっと差し出した。無言のまま、ただその手元に置く。
進之祐は、ぽかんとそれを見つめた。なぜ、ランタンなのか。なぜ、言葉ではなく、こんな形で。
だがその一瞬後に、彼は理解する。紫緒梨は“責めていない”のだ。見逃していない。ただ、見守っている。あなたが、自分で照らす決意をするまで、と。
彼は、ランタンの芯に火をともした。ゆらりと立ち上る灯りが、彼の瞳に反射する。そこに宿るのは、迷いと、覚悟の両方だった。
すぐそばには進之祐がいた。彼はノートパソコンを開いたまま、モニターに映る古文書の解読ソフトを無言で操作している。彼の表情はいつも通り静かで、眼鏡の奥の視線は淡々とスクロールバーを追っていた。けれどその指先は、今夜に限ってわずかに震えていた。庄はその隣で、ポータブルのコンロに手をかけ、湯を沸かしていた。空になったコーラ缶を片手に、何度目かのため息を吐きながらも、口元には笑みを浮かべていた。
「しかし、相変わらず暗号みたいな文字だよなあ、こいつ。見てると頭痛くなる」
庄が紙をひらりと持ち上げると、進之祐がちらと目をやる。
「それ、発掘日誌の断片。十年前の調査隊が使ってたやつだよ。漢字と英数字が混ざってるけど、いくつかの符号が変だ。たぶん、単なる記録じゃない」
紫緒梨は声を発さず、ページの一枚に目を留めた。そこには、うっすらと鉛筆で書かれた走り書きのような文字。枠外に小さく、こう記されていた。
“Shin - 5月18日 - S.T.構内 第2ルート封鎖済”
その瞬間、進之祐の指が止まった。空気がぴたりと凍る。庄がゆっくりと眉を上げる。
「……Shin? 進之祐、お前のことじゃないよな」
誰よりも早く言葉を飲み込んだのは、当の本人だった。彼はその書き込みに視線を落としたまま、喉元をぎゅっと詰まらせるように呼吸を整える。
「これは……兄のサインだ。真之助。十年前、調査団の一員だった。研究者じゃなくて、地質学専門の技術補助としてね。でも、あのあと急に海外に転職して、それ以来、連絡も取ってない」
紫緒梨がゆっくりと顔を上げ、進之祐の横顔を見つめる。普段は感情の起伏を見せない彼の頬に、微かだが明らかな緊張が浮かんでいた。手元のキーボードを操作しようとしたその指が、小さく震えていた。
「……進之祐」
紫緒梨の声は柔らかく、それでいて鋭さを帯びていた。彼は何も言わず、別の資料を探るふりをした。だが、その動作があまりに不自然で、紫緒梨にはすぐにわかった。彼は今、何かを“隠そう”としている。
「進之祐、何を見たの?」
問いかけに答えず、彼はページを繰ったまま、あるファイルをそっと自分の脇に引き寄せた。表紙に書かれたサイン。そこに記された“Shin”の文字を、指でなぞりながら、彼は低くつぶやいた。
「……これ以上、掘り下げたら、兄が……」
言葉の続きを飲み込んだ。顔を伏せた進之祐の姿に、庄が初めて、真剣な表情で立ち上がる。
「なあ。お前、まさか証拠を……」
そのとき、紫緒梨は言葉を挟まず、ただ一つの動作をした。コンロで沸いた湯をポットに注ぎながら、傍らの棚から古びたランタンを取り出し、それを進之祐の前にそっと差し出した。無言のまま、ただその手元に置く。
進之祐は、ぽかんとそれを見つめた。なぜ、ランタンなのか。なぜ、言葉ではなく、こんな形で。
だがその一瞬後に、彼は理解する。紫緒梨は“責めていない”のだ。見逃していない。ただ、見守っている。あなたが、自分で照らす決意をするまで、と。
彼は、ランタンの芯に火をともした。ゆらりと立ち上る灯りが、彼の瞳に反射する。そこに宿るのは、迷いと、覚悟の両方だった。