雲より高く、君を守る―ハイスペ社長と遺跡デザイナーの極上溺愛譚
【第九章 反転する状況】
その日は、朝から風が止んでいた。いつもは絶え間なく吹いていた草原の風がぴたりと静まり返り、空気が異様に重たく感じられた。雲一つない空には、太陽の光がじりじりと地表を照らし、発掘テント内の温度はすでに三十度を超えていた。最終調査日――地下通路の詳細な測量と、石碑周辺の地層分析が予定されていた。
地下への入り口は、巨大な石碑の影に隠れるように存在していた。調査のために一部掘削され、むき出しになったその穴は、まるで地中へ吸い込まれる裂け目のようだった。結莉はヘルメットをかぶりながら、地面に膝をつき、入り口をのぞき込む。鉄製の仮設階段が深く続き、底は闇に沈んでいた。
「結莉、準備できてる?」
千景の声に振り返ると、彼はすでに作業用ベストを身に着け、手には地図とタブレットを持っていた。その顔に、いつもの余裕はなかった。目の奥には、張り詰めた警戒の色がある。
「高は?」
「先に降りてる。内部の空気と照明確認。連絡は入ってる。安全装置の確認も済んでるはずだ」
結莉は頷き、深く息を吸った。心臓の鼓動が早まる。だが、身体は驚くほど静かだった。あの空の下で感じた“自分の感覚を信じる”という確信が、まだ胸に残っている。
地下へと足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。ひんやりとした冷気。壁面には古い石の文様が連なり、ほこりを含んだ風が奥から静かに流れてくる。ライトの光が断片的に通路を照らし、奥に向かって続く一本道の天井は不自然なほど低い。
「ここ……昔の人が掘ったものじゃない気がする」
結莉の言葉に、千景が頷いた。
「おそらく違法発掘だ。本来なら保存対象の層まで破壊されてる。構造的にも脆い。慎重に進もう」
通路の奥に、人影が見えた。
「高!」
声をかけると、彼はゆっくり振り返った。照明の光が斜めから彼の横顔を浮かび上がらせ、その表情には明らかな緊張があった。
「何か、おかしい。照明の配線が途中から切れてる。それに……この壁面、何かが埋まってる」
高が指差した場所には、小さな鉄の箱のようなものがあった。ほこりにまみれ、部分的に剥き出しになったそれは、見た目は配線器具にも似ている。だが、そこに記された注意書きの文字を見た瞬間、結莉の背筋が凍りついた。
「それ、爆破装置……?」
その言葉が発せられたと同時に、通路の奥で小さな音が弾けた。次の瞬間、轟音とともに床が揺れ、天井が崩れ始めた。結莉は反射的に千景を押し、仰向けに倒れる。その真上を、砕けた石が次々に落ちてくる。高が叫んだのが聞こえた。
「伏せろっ!」
だが、その声の直後、彼の身体が横に跳ね飛ばされた。崩落した岩が足元を直撃し、砂塵の中で彼の姿が地面に沈んだ。
「高っ!」
結莉が叫ぶ。立ち上がろうとした彼女の手を、千景がとっさに掴んだ。彼の肩には、落ちてきた梁の一部が覆いかぶさっていた。激しい痛みを堪えるように眉をひそめながらも、彼は片手で必死にそれを支えている。
「先に、高を……っ。行け!」
「ダメ、置いてなんか行けない!」
声を振り絞り、結莉は崩れた通路を見回した。自分たちの足元には、石碑の一部――昨日まで地上にあった彫刻片のかけらが転がっている。それを見た瞬間、頭の中に閃きが走った。石は分厚く、重量もある。もしこれを盾にして、崩落の波を遮ることができれば……。
「……これを使う!」
結莉は石碑のかけらを両手で抱え込み、千景の肩の上へと滑り込ませた。ちょうど梁の支点に噛み合うように石を押し込み、かすかに歪んだ金属が音を立てて止まる。その隙に、千景が体を引き抜いた。
「高を、運ぶよ!」
躊躇はなかった。千景が高の腕を抱え上げ、結莉が足元を支える。ぐずぐずと崩れかける通路を、二人は息を合わせて後退していく。
轟音はなおも続いていた。背後で壁が崩れ、天井からぱらぱらと砂や小石が降ってくる。ランタンの光が揺れ、奥にあったはずの通路が煙と土砂で埋まっていくのがわかる。出口までの道が閉ざされる――その緊張が、結莉の肌にびりびりと突き刺さる。
「こっち、脇に避難ルートがあるはず! さっき高が確認してた!」
結莉の声に、千景が頷いた。だが彼の肩は、さきほど支えていた鉄梁の衝撃で痺れているのか、わずかに震えていた。高の足からは出血があり、意識はまだあるものの、痛みで顔をゆがめている。時間がない。
「段差に気をつけて。あの左の岩の向こう――風が吹いてる。空気の流れがあるから、そこに通じる出口がある!」
いつの間にか、結莉が指示を出していた。冷静に、正確に、しかも誰よりも迅速に判断して。千景もまた、それに従うように無言で動いた。彼女の声が、指示が、今や確かな“導き”になっていた。
脇の通路に滑り込む。そこは以前に使われた避難路のようで、木材で補強された壁がところどころ崩れかけていたが、なんとか人一人が通れるだけの幅が残されていた。結莉はライトを持ち、先頭に立つ。手元に伝わる岩の質感、冷たい空気の温度変化、靴の裏に感じる細かな傾斜――すべてを感覚で掴んで進んでいく。
「千景さん、こっち。少し傾斜があります。足、滑らせないで!」
「了解、支えてる」
荒い息を整えながら、彼女は叫んだ。そう、叫び続けることで、思考を保っていた。怖い。正直、恐怖で足が震えていた。いつまた上から何かが落ちてくるかもわからない。でも、それでも前に進めたのは、目の前の二人を絶対に失いたくなかったからだった。
ようやく、空気が変わった。細い通路の先に、小さな光が見えた。地上だ。外だ。
「出口、見えた! あと少し!」
その瞬間、再び後方で「バンッ」と鋭い破裂音が鳴った。補強材が崩れ、通路の一部が閉ざされるように落ちてくる。逃げ道が塞がる。千景が高を抱えたまま、結莉を見た。
「君、先に――!」
「ダメです、全員で出るんです!」
結莉は叫び、背後に転がっていた石碑の破片を見つけた。あのとき支えに使った石材と同じ、硬質な白い面。それを素早く持ち上げ、崩れかけた隙間に滑り込ませて支点にする。重さが肩にのしかかる。腕がきしむ。だが、光は目の前だ。
「通って! 今しかない!」
千景が進み、高の体を支えながら出口へ滑り込む。最後に、結莉も腕に力を込めて抜け出した。その瞬間、支点にしていた石が崩れ、背後の通路が完全に塞がれた。
風が吹いていた。地上に出たとたん、陽の光と風の音が鼓膜を揺らす。遠くの空に、鷹が飛んでいた。三人は、ようやく立ち止まり、呼吸を整える。
結莉は座り込んだまま、泥にまみれた手を見つめた。だがその手は、確かに三人を救い出した。
「……君、すごいな」
千景がぽつりとつぶやいた。視線の奥にあるのは驚きでも賞賛でもなく、ただ“認めた”というまなざしだった。
「あなたに背中を照らしてもらうんじゃなかった。私が、照らす側になる」
息も絶え絶えに言ったその言葉に、千景は目を細めた。そしてゆっくりと、頷いた。
立場が入れ替わった――それはただの比喩ではない。結莉の中で何かが、確かに“反転”した瞬間だった。
地下への入り口は、巨大な石碑の影に隠れるように存在していた。調査のために一部掘削され、むき出しになったその穴は、まるで地中へ吸い込まれる裂け目のようだった。結莉はヘルメットをかぶりながら、地面に膝をつき、入り口をのぞき込む。鉄製の仮設階段が深く続き、底は闇に沈んでいた。
「結莉、準備できてる?」
千景の声に振り返ると、彼はすでに作業用ベストを身に着け、手には地図とタブレットを持っていた。その顔に、いつもの余裕はなかった。目の奥には、張り詰めた警戒の色がある。
「高は?」
「先に降りてる。内部の空気と照明確認。連絡は入ってる。安全装置の確認も済んでるはずだ」
結莉は頷き、深く息を吸った。心臓の鼓動が早まる。だが、身体は驚くほど静かだった。あの空の下で感じた“自分の感覚を信じる”という確信が、まだ胸に残っている。
地下へと足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。ひんやりとした冷気。壁面には古い石の文様が連なり、ほこりを含んだ風が奥から静かに流れてくる。ライトの光が断片的に通路を照らし、奥に向かって続く一本道の天井は不自然なほど低い。
「ここ……昔の人が掘ったものじゃない気がする」
結莉の言葉に、千景が頷いた。
「おそらく違法発掘だ。本来なら保存対象の層まで破壊されてる。構造的にも脆い。慎重に進もう」
通路の奥に、人影が見えた。
「高!」
声をかけると、彼はゆっくり振り返った。照明の光が斜めから彼の横顔を浮かび上がらせ、その表情には明らかな緊張があった。
「何か、おかしい。照明の配線が途中から切れてる。それに……この壁面、何かが埋まってる」
高が指差した場所には、小さな鉄の箱のようなものがあった。ほこりにまみれ、部分的に剥き出しになったそれは、見た目は配線器具にも似ている。だが、そこに記された注意書きの文字を見た瞬間、結莉の背筋が凍りついた。
「それ、爆破装置……?」
その言葉が発せられたと同時に、通路の奥で小さな音が弾けた。次の瞬間、轟音とともに床が揺れ、天井が崩れ始めた。結莉は反射的に千景を押し、仰向けに倒れる。その真上を、砕けた石が次々に落ちてくる。高が叫んだのが聞こえた。
「伏せろっ!」
だが、その声の直後、彼の身体が横に跳ね飛ばされた。崩落した岩が足元を直撃し、砂塵の中で彼の姿が地面に沈んだ。
「高っ!」
結莉が叫ぶ。立ち上がろうとした彼女の手を、千景がとっさに掴んだ。彼の肩には、落ちてきた梁の一部が覆いかぶさっていた。激しい痛みを堪えるように眉をひそめながらも、彼は片手で必死にそれを支えている。
「先に、高を……っ。行け!」
「ダメ、置いてなんか行けない!」
声を振り絞り、結莉は崩れた通路を見回した。自分たちの足元には、石碑の一部――昨日まで地上にあった彫刻片のかけらが転がっている。それを見た瞬間、頭の中に閃きが走った。石は分厚く、重量もある。もしこれを盾にして、崩落の波を遮ることができれば……。
「……これを使う!」
結莉は石碑のかけらを両手で抱え込み、千景の肩の上へと滑り込ませた。ちょうど梁の支点に噛み合うように石を押し込み、かすかに歪んだ金属が音を立てて止まる。その隙に、千景が体を引き抜いた。
「高を、運ぶよ!」
躊躇はなかった。千景が高の腕を抱え上げ、結莉が足元を支える。ぐずぐずと崩れかける通路を、二人は息を合わせて後退していく。
轟音はなおも続いていた。背後で壁が崩れ、天井からぱらぱらと砂や小石が降ってくる。ランタンの光が揺れ、奥にあったはずの通路が煙と土砂で埋まっていくのがわかる。出口までの道が閉ざされる――その緊張が、結莉の肌にびりびりと突き刺さる。
「こっち、脇に避難ルートがあるはず! さっき高が確認してた!」
結莉の声に、千景が頷いた。だが彼の肩は、さきほど支えていた鉄梁の衝撃で痺れているのか、わずかに震えていた。高の足からは出血があり、意識はまだあるものの、痛みで顔をゆがめている。時間がない。
「段差に気をつけて。あの左の岩の向こう――風が吹いてる。空気の流れがあるから、そこに通じる出口がある!」
いつの間にか、結莉が指示を出していた。冷静に、正確に、しかも誰よりも迅速に判断して。千景もまた、それに従うように無言で動いた。彼女の声が、指示が、今や確かな“導き”になっていた。
脇の通路に滑り込む。そこは以前に使われた避難路のようで、木材で補強された壁がところどころ崩れかけていたが、なんとか人一人が通れるだけの幅が残されていた。結莉はライトを持ち、先頭に立つ。手元に伝わる岩の質感、冷たい空気の温度変化、靴の裏に感じる細かな傾斜――すべてを感覚で掴んで進んでいく。
「千景さん、こっち。少し傾斜があります。足、滑らせないで!」
「了解、支えてる」
荒い息を整えながら、彼女は叫んだ。そう、叫び続けることで、思考を保っていた。怖い。正直、恐怖で足が震えていた。いつまた上から何かが落ちてくるかもわからない。でも、それでも前に進めたのは、目の前の二人を絶対に失いたくなかったからだった。
ようやく、空気が変わった。細い通路の先に、小さな光が見えた。地上だ。外だ。
「出口、見えた! あと少し!」
その瞬間、再び後方で「バンッ」と鋭い破裂音が鳴った。補強材が崩れ、通路の一部が閉ざされるように落ちてくる。逃げ道が塞がる。千景が高を抱えたまま、結莉を見た。
「君、先に――!」
「ダメです、全員で出るんです!」
結莉は叫び、背後に転がっていた石碑の破片を見つけた。あのとき支えに使った石材と同じ、硬質な白い面。それを素早く持ち上げ、崩れかけた隙間に滑り込ませて支点にする。重さが肩にのしかかる。腕がきしむ。だが、光は目の前だ。
「通って! 今しかない!」
千景が進み、高の体を支えながら出口へ滑り込む。最後に、結莉も腕に力を込めて抜け出した。その瞬間、支点にしていた石が崩れ、背後の通路が完全に塞がれた。
風が吹いていた。地上に出たとたん、陽の光と風の音が鼓膜を揺らす。遠くの空に、鷹が飛んでいた。三人は、ようやく立ち止まり、呼吸を整える。
結莉は座り込んだまま、泥にまみれた手を見つめた。だがその手は、確かに三人を救い出した。
「……君、すごいな」
千景がぽつりとつぶやいた。視線の奥にあるのは驚きでも賞賛でもなく、ただ“認めた”というまなざしだった。
「あなたに背中を照らしてもらうんじゃなかった。私が、照らす側になる」
息も絶え絶えに言ったその言葉に、千景は目を細めた。そしてゆっくりと、頷いた。
立場が入れ替わった――それはただの比喩ではない。結莉の中で何かが、確かに“反転”した瞬間だった。