亡国の聖女は氷帝に溺愛される

星空の下で

 光を束ねたような髪が、風に揺られている。

「…生きて……生きていたんだね…」

 少年は碧色の大きな瞳から涙をこぼすと、ルーチェに駆け寄るなり強く抱きしめてきた。

「わ、わっ……!」

 突然のことに、ルーチェはどうしたらいいのか分からない。振り向いたらそこに居て、目が合ったかと思えば泣かれて、抱きつかれている。どうしたものだろうか。

「あ、あの……私を知っているんですか?」

 戸惑いながらも、一番知りたかったことを訊いてみると、少年がぱっと顔を上げた。濡れたその瞳は困惑したように揺れている。

「……もしかして、俺が分からない?」
「は、はい」

 ルーチェが頷くと、少年は慌てた様子でルーチェを放した。腕組みをしながらルーチェのことを上から下まで眺めると、今度は手元に口を当てている。

「私のことを知っているのですか?」

「知ってるよ。この世界で二番目に」

 まさかの返事に、ルーチェは目を真ん丸に見開いた。
 二番目ということは、ルーチェの知りたいことを全て知っているのではないだろうか。きっと、記憶のことも。

「……私の名前を、ご存知ですか?」

 ルーチェは右の手のひらを握りしめながら、震える声で問いかけた。

 赤色のケープが靡く。その下から覗いた同じ色の衣装には、金色の月の刺繍が入っている。どこかの国の紋章のようだが、イージス神聖王国のものではない、気がした。

「それは聖王様しか知らない。貴女の名前を呼べるのは、この世でただ一人だけだから」

 少年は寂しそうに笑うと、目元を乱暴に拭ってからルーチェと向き直る。

「俺はノエル。氷帝に呼ばれて、マーズから来た」
「マー、ズ…」

 マーズとはどこにあるのだろうか。ルーチェのことを知っている少年を、ヴィルジールが呼び寄せた理由は何だろう。

 何から訊けばいいか迷っていると、慌ただしい足音が近づいてくる。現れたのは、先ほど挨拶したばかりの使用人・ロイドだった。

「──ノエル様!ここにいらっしゃいましたか」

 ノエルは悪戯に成功した子供のような表情をすると、軽やかな足取りで外へと向かっていく。だが、門の手前で足を止めると、ルーチェを振り返った。

「……話の途中でごめん。色々と話したいことがあるけど、氷帝を怒らせたら面倒くさそうだから」

「ノエルさん…」

「しばらくこの国に滞在することになったから、また会えるよ。なんなら明後日にでも」

 ノエルは優しく笑うと、アーチの向こうへと消えた。


(わたしの名前を呼べるのは、ただひとりだけ)

 それ即ち、聖王しか知らないということだ。以前の自分とノエルの関係性は分からないが、ルーチェが生きていたことに涙を流して喜んでいたから、側にいた人なのかもしれない。

 ノエルは黄金色の髪に碧色の瞳をしていた。それは何度か瞼の裏で目にした美しい青年と同じだ。あの青年を聖王と仮定すると、ノエルさんとやらは血縁者か何かだろうか。

「聖女様。お部屋にご案内いたします」

 いつからそこにいたのか、セルカが柱の裏から姿を現す。ルーチェを見て少しだけ表情を緩めると、流麗なお辞儀をした。

「……セルカさん。今の方をご存知ですか?」

「御姿を拝見したのは初めてですが、マーズの大魔法使いかと。二日後に開催される式典に参列されるのではないでしょうか」

 ルーチェが首を傾げると、セルカは「まずはお部屋に」と言い、先導するように歩き出した。その背を追って歩みを進めると、美しい風景画が並ぶ廊下に出る。

「皇帝陛下は間もなく即位十年目を迎えます。その記念式典が二日後に開催されるのです。体調が良ければ聖女様も是非出席を、と先ほど案内の者が来ていたそうで」

「私のようなものが…良いのでしょうか?」

 セルカが一際豪奢な扉の前で立ち止まる。ドアノブに手を掛ける前に、彼女はルーチェを振り返るとピンと姿勢を正した。

「何を仰るのですか。貴女様は皇帝陛下の御命を救ったのですよ。先日の襲撃事件のことといい、破魔の結界といい、我ら帝国の民はどうお返ししたら良いか」

「ですが、あの竜はきっと、私を…」

 ルーチェは俯いた。ヴィルジールを救い、民の傷をも癒したことに感謝されても、そもそもその元凶となった竜はルーチェを襲いにきたのではないかと思っているからだ。

 あの竜はルーチェを知っていた。光を纏う黄金の竜は恐ろしく強く、誰もが怖れるというヴィルジールの命をも脅かしたのだ。

「……ルーチェ様」

 まだヴィルジール以外の人には呼ばれたことがない名を呼ばれ、ルーチェは顔を上げる。すると、穏やかな表情をしているセルカと目が合った。

「私もそのようにお呼びしてもよろしいでしょうか」

「セルカさん…」

「帝国を救ってくださった聖女様に、願いを乞うなど…身の程知らずなのは承知の上でございます」

 ルーチェは泣きたくなるような気持ちで、首を左右に振った。

 身の程知らずなのは自分の方だ。己のことも己の罪も、全てを忘れているルーチェにセルカは尽くしてくれている。たとえそれが、命令であったとしても。

「ルーチェと呼んでください」

 セルカは口元を綻ばせると、胸の下で手を重ね合わせながら頭を下げた。
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