亡国の聖女は氷帝に溺愛される
氷の仮面
ヴィルジールの鼓膜を揺らすには、足りないくらい小さな音で。届くかどうか分からない距離だったというのに、耳に届いていたようだ。
ルーチェ、と唇が動いたのをはっきりと見て取れた。
ヴィルジールは軽やかに柵を飛び越えると、上着のポケットに手を突っ込みながら、ルーチェがいるテラスの下にやってきた。
「まだ起きていたのか」
月明かりに照らされながら、彼は口を開いた。
「はい。なんだか眠れなくて」
「それで、泣いていたのか」
深い青色の瞳が細められる。ルーチェを見上げるヴィルジールの眼差しは、月の光のせいか優しく感じられた。
「……考え事を、していたのです」
「そうか」
ルーチェは月へと目を逸らした。
無数の星が散る薄闇に浮かぶ月は、微かな青を帯びながら、淡い光を纏っている。冴え冴えと聳えているが、ほのかな優しさも感じられるそれは、ヴィルジールに似ているように思う。
冷たいようで、本当は温かいような…そんな気がしているのだ。
「降りてこないか」
思いもよらない提案に、ルーチェは目を瞬かせた。
「受け止めてくださるのですか?」
「落ちてくると分かっている者を、黙って眺めるような人間に見えるのか?」
ルーチェは微笑った。袖を捲って柵に手をつけ、大きく半身を捩らせながら登る。そこからヴィルジールを目掛けて、勢いよく飛んだ。
テラスから飛び降りたルーチェを、ヴィルジールはしっかりと受け止めてくれた。落ちる寸前に閉じた目をゆっくりと開けると、視界いっぱいにヴィルジールの綺麗な顔がある。
「ありがとうございます」
ルーチェは慌ててお礼を言い、ヴィルジールから離れようとした。だが、ルーチェを抱き止めた両腕は、今もその細い身体に回されたままで。
「……陛下?」
ヴィルジールはルーチェの声でハッとしたように目を開くと、すぐに腕をほどいた。あろうことか、羽織っていた上着を脱いで、ルーチェの肩に掛けてくる。
「夜は冷えるから着ていろ」
ルーチェはこくりと頷き、灰色のカーディガンに包まった。
真夜中のヴィルジールは、昼や夕に会った時よりも静かで寂しげな印象を受けた。前髪を下ろしているせいで、翳りがあるように感じられるのかもしれない。
ルーチェはヴィルジールとともに、庭園にあるベンチに腰を下ろした。水が流れる音に耳を傾けながら、隣を見上げる。
「どうして、この離宮の前にいらしたのですか?」
「散歩をしていたら、気づけばここに来ていて…泣いているお前が目に入った」
ヴィルジールが散歩をする姿が想像できなくて、ルーチェは思わず笑みをこぼしていた。
「なぜ笑っている」
「いえ、その…陛下も散歩をされるのだなあと」
「一日中座っていたら、気がおかしくなるだろう」
ヴィルジールはふっと口元だけで微笑むと、ぐるりと庭園を見回した。
「久しぶりに来たが、ここは相変わらずだな」
「いらしたことがあるのですね」
「子供の頃にな」
ヴィルジールは少し前のめりになり、手を重ね合わせながら遠くを見始めた。その目は門の傍にある、白い石碑へと注がれている。
「ソレイユ宮。ここは聖女の伝説が残る場所だ」
ルーチェも石碑を見遣った。不思議な造形で、中央に何か文字のようなものが刻まれているが、この距離でははっきりと読むことはできなかった。
「この国に聖女様はおられないのですか?」
「何百年もの間いない。それらしき力を持った者は稀にいて、我こそはと名乗りを上げていたが……どれもハッタリだ。人より治癒魔法が優れているだけで、それ以上のことは何も」
魔法が使えるだけでも凄いことだとルーチェは思うが、それだけでは聖女となるのは難しいようだ。それほどまでに稀有な存在なのだろう。
「……ソレイユ宮、ですか」
「ここに来た聖女の名前だそうだ。祖先と盟約のようなものを結んだと聞いているが、詳しいことは分からない」
遥か昔に、ここに現れた聖女──ソレイユ。彼女はヴィルジールの祖先と、何かを結んだ。それ以上のことは何も残っていないとヴィルジールは静かに語った。
石碑に書かれている文字を見に行こうと思い、ルーチェは立ち上がる。ふわりと吹いた風が、花の香りを運んできた。恐らく庭園を埋め尽くしている、青い花のものだろうと思う。限られた人間しか着ていない色と同じであることに、きっと意味があるのだろう。
ルーチェは石碑の前で足を止め、そこに書かれている文字に目を落としながら、指先でそっと撫でた。
「──青に誓いと約束を。ソレイユ様は青色がお好きだったのでしょうか」
「そう書いてあるのか?」
ヴィルジールが驚いたような声音で尋ねてくる。振り返ると、ヴィルジールは目を見張っていた。
「……?ええ、そのように書いてありますが…」
「同じ聖女だからか」
ヴィルジールの言っていることがよく分からず、ルーチェは首を傾げた。自分はただそこに書いてあることを読んだだけだというのに。
暫くの間、ヴィルジールは何かを考え込む様子だったが、答えを見つけたのかルーチェの元へと歩み寄ると、隣に並んで立った。その青い瞳は石碑へと向けられている。
「……記憶を喪っても、お前が培ってきたものは失われてはいない。ならば自分のことを知れば、記憶を取り戻すきっかけになるのではないか?」
「陛下…?」
ヴィルジールが目を伏せ、それからルーチェと向き直る。
「ヴィルジールでいい」
「……ヴィルジール、さま? 自分のことを知るとは、どのような…」
「そのままの意味だ」
ヴィルジールは辿るように視線を上げ、眩しげなものを見るかのように夜空を見上げる。
「近いうちに、出掛ける」
そう呟かれた声に、ルーチェの耳は優しく撫でられた。
(で、出掛けるって……?)
それが自分を知ることとどう関係があるのだろうか。
何から尋ねればいいのか、何と尋ねるべきか。そう迷っていたルーチェの頭に、ヴィルジールの大きな手が乗せられる。
顔を上げると、ヴィルジールの目が真っ直ぐにこちらを見ていた。彼はいつもの無表情で、淡々と静かに告げる。
「──無論、俺とお前の話だ。ルーチェ」
「っ……!」
ルーチェは口をぱくぱくさせた。突然のことに、頭の奥がくらくらする。
触れられて、見つめられている。それも一瞬ではない、今この瞬間も、ヴィルジールの手の温度を感じる。
どれも初めてのことではないのに、どうしたらいいのか分からない。言葉どころか呼吸の仕方さえも忘れてしまいそうだ。
それは、どうしてなのか。
その答えを探す間もなく、ヴィルジールの手は離れていく。
「……もう夜も遅い。早く部屋に戻れ」
「……ヴィ、ヴィルジールさまも」
辿々しいルーチェの声に何か思うところがあったのか、ヴィルジールはとてもささやかな微笑を滲ませると、ふらりと右手を振ってから踵を返した。
まるで、“またね”の挨拶のようだ。
冷酷だと恐れられている男の意外な一面を見たルーチェは、どこからともなく現れたセルカに声を掛けられるまで、ヴィルジールの背中を見つめていたのだった。
ルーチェ、と唇が動いたのをはっきりと見て取れた。
ヴィルジールは軽やかに柵を飛び越えると、上着のポケットに手を突っ込みながら、ルーチェがいるテラスの下にやってきた。
「まだ起きていたのか」
月明かりに照らされながら、彼は口を開いた。
「はい。なんだか眠れなくて」
「それで、泣いていたのか」
深い青色の瞳が細められる。ルーチェを見上げるヴィルジールの眼差しは、月の光のせいか優しく感じられた。
「……考え事を、していたのです」
「そうか」
ルーチェは月へと目を逸らした。
無数の星が散る薄闇に浮かぶ月は、微かな青を帯びながら、淡い光を纏っている。冴え冴えと聳えているが、ほのかな優しさも感じられるそれは、ヴィルジールに似ているように思う。
冷たいようで、本当は温かいような…そんな気がしているのだ。
「降りてこないか」
思いもよらない提案に、ルーチェは目を瞬かせた。
「受け止めてくださるのですか?」
「落ちてくると分かっている者を、黙って眺めるような人間に見えるのか?」
ルーチェは微笑った。袖を捲って柵に手をつけ、大きく半身を捩らせながら登る。そこからヴィルジールを目掛けて、勢いよく飛んだ。
テラスから飛び降りたルーチェを、ヴィルジールはしっかりと受け止めてくれた。落ちる寸前に閉じた目をゆっくりと開けると、視界いっぱいにヴィルジールの綺麗な顔がある。
「ありがとうございます」
ルーチェは慌ててお礼を言い、ヴィルジールから離れようとした。だが、ルーチェを抱き止めた両腕は、今もその細い身体に回されたままで。
「……陛下?」
ヴィルジールはルーチェの声でハッとしたように目を開くと、すぐに腕をほどいた。あろうことか、羽織っていた上着を脱いで、ルーチェの肩に掛けてくる。
「夜は冷えるから着ていろ」
ルーチェはこくりと頷き、灰色のカーディガンに包まった。
真夜中のヴィルジールは、昼や夕に会った時よりも静かで寂しげな印象を受けた。前髪を下ろしているせいで、翳りがあるように感じられるのかもしれない。
ルーチェはヴィルジールとともに、庭園にあるベンチに腰を下ろした。水が流れる音に耳を傾けながら、隣を見上げる。
「どうして、この離宮の前にいらしたのですか?」
「散歩をしていたら、気づけばここに来ていて…泣いているお前が目に入った」
ヴィルジールが散歩をする姿が想像できなくて、ルーチェは思わず笑みをこぼしていた。
「なぜ笑っている」
「いえ、その…陛下も散歩をされるのだなあと」
「一日中座っていたら、気がおかしくなるだろう」
ヴィルジールはふっと口元だけで微笑むと、ぐるりと庭園を見回した。
「久しぶりに来たが、ここは相変わらずだな」
「いらしたことがあるのですね」
「子供の頃にな」
ヴィルジールは少し前のめりになり、手を重ね合わせながら遠くを見始めた。その目は門の傍にある、白い石碑へと注がれている。
「ソレイユ宮。ここは聖女の伝説が残る場所だ」
ルーチェも石碑を見遣った。不思議な造形で、中央に何か文字のようなものが刻まれているが、この距離でははっきりと読むことはできなかった。
「この国に聖女様はおられないのですか?」
「何百年もの間いない。それらしき力を持った者は稀にいて、我こそはと名乗りを上げていたが……どれもハッタリだ。人より治癒魔法が優れているだけで、それ以上のことは何も」
魔法が使えるだけでも凄いことだとルーチェは思うが、それだけでは聖女となるのは難しいようだ。それほどまでに稀有な存在なのだろう。
「……ソレイユ宮、ですか」
「ここに来た聖女の名前だそうだ。祖先と盟約のようなものを結んだと聞いているが、詳しいことは分からない」
遥か昔に、ここに現れた聖女──ソレイユ。彼女はヴィルジールの祖先と、何かを結んだ。それ以上のことは何も残っていないとヴィルジールは静かに語った。
石碑に書かれている文字を見に行こうと思い、ルーチェは立ち上がる。ふわりと吹いた風が、花の香りを運んできた。恐らく庭園を埋め尽くしている、青い花のものだろうと思う。限られた人間しか着ていない色と同じであることに、きっと意味があるのだろう。
ルーチェは石碑の前で足を止め、そこに書かれている文字に目を落としながら、指先でそっと撫でた。
「──青に誓いと約束を。ソレイユ様は青色がお好きだったのでしょうか」
「そう書いてあるのか?」
ヴィルジールが驚いたような声音で尋ねてくる。振り返ると、ヴィルジールは目を見張っていた。
「……?ええ、そのように書いてありますが…」
「同じ聖女だからか」
ヴィルジールの言っていることがよく分からず、ルーチェは首を傾げた。自分はただそこに書いてあることを読んだだけだというのに。
暫くの間、ヴィルジールは何かを考え込む様子だったが、答えを見つけたのかルーチェの元へと歩み寄ると、隣に並んで立った。その青い瞳は石碑へと向けられている。
「……記憶を喪っても、お前が培ってきたものは失われてはいない。ならば自分のことを知れば、記憶を取り戻すきっかけになるのではないか?」
「陛下…?」
ヴィルジールが目を伏せ、それからルーチェと向き直る。
「ヴィルジールでいい」
「……ヴィルジール、さま? 自分のことを知るとは、どのような…」
「そのままの意味だ」
ヴィルジールは辿るように視線を上げ、眩しげなものを見るかのように夜空を見上げる。
「近いうちに、出掛ける」
そう呟かれた声に、ルーチェの耳は優しく撫でられた。
(で、出掛けるって……?)
それが自分を知ることとどう関係があるのだろうか。
何から尋ねればいいのか、何と尋ねるべきか。そう迷っていたルーチェの頭に、ヴィルジールの大きな手が乗せられる。
顔を上げると、ヴィルジールの目が真っ直ぐにこちらを見ていた。彼はいつもの無表情で、淡々と静かに告げる。
「──無論、俺とお前の話だ。ルーチェ」
「っ……!」
ルーチェは口をぱくぱくさせた。突然のことに、頭の奥がくらくらする。
触れられて、見つめられている。それも一瞬ではない、今この瞬間も、ヴィルジールの手の温度を感じる。
どれも初めてのことではないのに、どうしたらいいのか分からない。言葉どころか呼吸の仕方さえも忘れてしまいそうだ。
それは、どうしてなのか。
その答えを探す間もなく、ヴィルジールの手は離れていく。
「……もう夜も遅い。早く部屋に戻れ」
「……ヴィ、ヴィルジールさまも」
辿々しいルーチェの声に何か思うところがあったのか、ヴィルジールはとてもささやかな微笑を滲ませると、ふらりと右手を振ってから踵を返した。
まるで、“またね”の挨拶のようだ。
冷酷だと恐れられている男の意外な一面を見たルーチェは、どこからともなく現れたセルカに声を掛けられるまで、ヴィルジールの背中を見つめていたのだった。