亡国の聖女は氷帝に溺愛される
導きの光
坊や、と。繰り返されるか細い声で目を覚ますと、目の前には見たことのない顔があった。
白銀色の髪と菫色の瞳、白く滑らかな肌、薔薇色の唇。まるで芸術品のように整った美しい女が、泣きながら訴えている。
(───何だ、これは)
ここは夢の中だ。そうだと判ったのは、そこが身も心も凍りついてしまいそうな豪雪の中だというのに、少しも寒さを感じなかったから。
『いつか、巡り巡った私の魂が──』
泣いている女が、腕に抱いていたものと一本の剣を差し出してくる。それを受け取ると、女の身体が輝きだしたかと思えば、ぶわりと大きな光を放った。
その瞬間、女の髪色が色を失い、闇一色へと変わった。
『待ってください! あなたはっ…』
女へと伸ばした手は、子供のように小さくて。何一つ掴めなかったその手は、細々とした青い光を纏っていく。
白銀色の髪の女が、少年に何かを託し──光の粉になって消えた。今の一つの光景は、少年が見ていたもののようだ。
いつ、何処で起きたことなのか。あの二人は誰なのか。少年が小さな腕で抱きしめているものは何なのか。
全てが不可解な夢から目を醒ました時、鈴を転がしたような声に、名前を呼ばれた気がした。
◆
「────っ」
ヴィルジールは弾かれたように目を覚ました。
全身の肌は粟立っているというのに、額にも背にも冷や汗を掻いている。鈍く痛む頭を押さえていると、誰かが目の前に湯気が立つティーカップを置いた。昔から好んで口にしている茶葉の香りがする。
深く息を吸い込みながら目線を上げると、エヴァンが苦笑を浮かべながらお盆を手に立っていた。
「──陛下がうたた寝をされるなんて、珍しいですね」
それは違う、と言い返す気力はなかった。
ヴィルジールはこめかみに指先を添えながら、深く息を吐く。
「………ここ最近、夢見が悪かった」
「悪い夢ですか?」
あれは悪い夢なのだろうか。ティーカップの取手に指を掛けたまま、紅茶に映る自分の顔を見る。ここ数日眠りが浅かった為か、酷い顔色だ。
「さあな。あれが何なのかは俺が知りたいくらいだ」
それは困りましたね、とエヴァンが首を捻る。ただでさえ仕事量が人より多いというのに、皇帝であるヴィルジールが倒れたらどうなることやらと懸念しているのだろう。
「宮廷医に薬を処方させましょうか? それとも治癒師を呼びましょうか」
ヴィルジールは首を左右に振りながら、椅子から立ち上がった。
「いい。少し散歩に出てくる」
散歩?と、エヴァンが驚いた声を出したが、ヴィルジールは返事をせずに執務室を出た。
陽光が差し込む廊下を真っ直ぐに歩く。執務室前の廊下は常に人払いをしている為、警護当番の騎士を除いて誰もいない。
(……あの場所に行くか)
歩きながら行き先を決めたヴィルジールは、城の中庭に繋がるガラス扉を開けた。そして、その先の景色を見て静かに息を呑んだ。
「……ルーチェ?」
「ヴィ、ヴィルジールさまっ…?」
なんと、ルーチェが数冊の本を手に、中庭に座り込んでいたのだ。
ルーチェは慌てて立ち上がると、裾についた落ち葉や花弁を払い除けてから、ヴィルジールに向かって頭を下げた。
「いらっしゃるとは思わず、失礼をいたしました」
「それはこちらの台詞だ」
ヴィルジールは唇を横に引くと、ルーチェの目の前まで歩み寄った。彼女は木の下で読書をしていたのか、足元の本には栞が挟まれている。本のタイトルに目を流すと、魔法学や歴史に関する書物ばかりだ。
「調べ物をしていたのか?」
「はい。聖女の力について、何か分かることがあると良いのですが」
そう言って、本を拾い上げ、胸の前で大切そうに抱きしめるルーチェの瞳は、悲しげに揺れていた。
きっと、聖女でありながら、その力の使い方が分からずにいることに胸を痛めているのだろう。記憶を喪っているのだから、それは致し方のないことであり、これからゆっくり取り戻していけばいいとヴィルジールは思っているのだが。
ルーチェは、そうではないようだ。
「……聖女か」
ヴィルジールは小さく吐くと、ルーチェの後ろに聳える大きな木の下に行き、そこに背を預けるようにして座り込んだ。
ルーチェが驚いたように目を見張っていたが、ヴィルジールは目を合わせずに瞼を下ろした。
目を閉じて耳を澄ませると、色々なものが聞こえてくる。頭上の枝にいる鳥たちの囀り、木々を揺らす風の音、練兵場で訓練をしている騎士の声。それらをぼんやりと聞きながらここで一息つきたくなるのは、決まって疲れが溜まった時だ。
隣にルーチェが座る気配がして、ヴィルジールは目を開けた。
「お疲れのようですね。顔色が悪い気がします」
ルーチェはヴィルジールの深い青色の瞳を真っ直ぐ見上げ、困ったように眉を下げる。
「……夢見が悪かった所為かもしれない」
「どんな夢を?」
「よく分からない」
よく分からないというのに、悪いと仰るのですが、とルーチェが首を捻る。その細い手がヴィルジールに伸びてきたかと思えば、次の瞬間には額に押し当てられていた。
──今、何をされているのだろうか。
硬直しているヴィルジールの顔の前にいるルーチェは、ううんと唸りながら、自身の額にも手を当て、瞬きをしながら少し上を見ていた。
「……ルーチェ」
名を呼ぶと、ルーチェは呼吸を忘れたような顔をしてから、ヴィルジールから手を離した。そのまま物凄い勢いで後ろにカサカサと下がると、ぱっと正座をする。
ヴィルジールはルーチェが何をしていたのか、そして何故逃げるように後退したのかが分からず、薄い唇を開きかけたまま固まった。
次の瞬間、ルーチェが両手を前に着きながら深々と頭を下げた。
「申し訳ございません…!許可もなく、触れてしまい」
「別に構わないが、何をしようとしていたんだ」
ルーチェはええと、と歯切れの悪い返事をしてから、目を泳がせていた。その様子から、悪いことをしようとしていたわけではなさそうだ。
暫くの間、ヴィルジールは一方的にルーチェを見つめていたが、それに耐えかねたのかルーチェが目を合わせてきた。
菫色の瞳に、不思議な顔をしている自分が映っている。
「熱を、測ろうとしていたのです」
ヴィルジールは目を瞬いた。
「触れただけで分かるのか?」
ルーチェが頷いて、目を白い手へと動かす。
「触れた相手の身体に不調があったら、伝わる……ような気がして」
曖昧な言い方をしたのは、不確かなものだからだろう。それは聖女の力なのか、ルーチェだけが持つ特別な力なのかは分からないが。
触れて、確かめる。まるで母が子にするようなことをされたのは、いつ以来だろうか。声も顔も分からない母親のことを思い出したヴィルジールは、それを振り払うように目を閉じて、ルーチェの名を呼んだ。
「ならば肩を貸せ」
「肩を、ですか?」
戸惑いながらも、ルーチェが寄ってきて、隣に腰を下ろす気配がした。風でふわりと揺れたルーチェの髪が、ヴィルジールの頬を掠める。
どことなく懐かしい花の匂いに誘われるように、ヴィルジールはもう一度瞼を下ろした。