亡国の聖女は氷帝に溺愛される

導きの光


 坊や、と。繰り返されるか細い声で目を覚ますと、目の前には見たことのない顔があった。

 白銀色の髪と菫色の瞳、白く滑らかな肌、薔薇色の唇。まるで芸術品のように整った美しい女が、泣きながら訴えている。

(───何だ、これは)

 ここは夢の中だ。そうだと判ったのは、そこが身も心も凍りついてしまいそうな豪雪の中だというのに、少しも寒さを感じなかったから。

『いつか、巡り巡った私の魂が──』

 泣いている女が、腕に抱いていたものと一本の剣を差し出してくる。それを受け取ると、女の身体が輝きだしたかと思えば、ぶわりと大きな光を放った。

 その瞬間、女の髪色が色を失い、闇一色へと変わった。

『待ってください! あなたはっ…』

 女へと伸ばした手は、子供のように小さくて。何一つ掴めなかったその手は、細々とした青い光を纏っていく。

 白銀色の髪の女が、少年に何かを託し──光の粉になって消えた。今の一つの光景は、少年が見ていたもののようだ。

 いつ、何処で起きたことなのか。あの二人は誰なのか。少年が小さな腕で抱きしめているものは何なのか。

 全てが不可解な夢から目を醒ました時、鈴を転がしたような声に、名前を呼ばれた気がした。



「────っ」

 ヴィルジールは弾かれたように目を覚ました。

 全身の肌は粟立っているというのに、額にも背にも冷や汗を掻いている。鈍く痛む頭を押さえていると、誰かが目の前に湯気が立つティーカップを置いた。昔から好んで口にしている茶葉の香りがする。

 深く息を吸い込みながら目線を上げると、エヴァンが苦笑を浮かべながらお盆を手に立っていた。

「──陛下がうたた寝をされるなんて、珍しいですね」

 それは違う、と言い返す気力はなかった。
 ヴィルジールはこめかみに指先を添えながら、深く息を吐く。

「………ここ最近、夢見が悪かった」

「悪い夢ですか?」

 あれは悪い夢なのだろうか。ティーカップの取手に指を掛けたまま、紅茶に映る自分の顔を見る。ここ数日眠りが浅かった為か、酷い顔色だ。

「さあな。あれが何なのかは俺が知りたいくらいだ」

 それは困りましたね、とエヴァンが首を捻る。ただでさえ仕事量が人より多いというのに、皇帝であるヴィルジールが倒れたらどうなることやらと懸念しているのだろう。

「宮廷医に薬を処方させましょうか? それとも治癒師を呼びましょうか」

 ヴィルジールは首を左右に振りながら、椅子から立ち上がった。

「いい。少し散歩に出てくる」

 散歩?と、エヴァンが驚いた声を出したが、ヴィルジールは返事をせずに執務室を出た。

 陽光が差し込む廊下を真っ直ぐに歩く。執務室前の廊下は常に人払いをしている為、警護当番の騎士を除いて誰もいない。

(……あの場所に行くか)

 歩きながら行き先を決めたヴィルジールは、城の中庭に繋がるガラス扉を開けた。そして、その先の景色を見て静かに息を呑んだ。

「……ルーチェ?」

「ヴィ、ヴィルジールさまっ…?」

 なんと、ルーチェが数冊の本を手に、中庭に座り込んでいたのだ。

 ルーチェは慌てて立ち上がると、裾についた落ち葉や花弁を払い除けてから、ヴィルジールに向かって頭を下げた。

「いらっしゃるとは思わず、失礼をいたしました」

「それはこちらの台詞だ」

 ヴィルジールは唇を横に引くと、ルーチェの目の前まで歩み寄った。彼女は木の下で読書をしていたのか、足元の本には栞が挟まれている。本のタイトルに目を流すと、魔法学や歴史に関する書物ばかりだ。

「調べ物をしていたのか?」

「はい。聖女の力について、何か分かることがあると良いのですが」

 そう言って、本を拾い上げ、胸の前で大切そうに抱きしめるルーチェの瞳は、悲しげに揺れていた。

 きっと、聖女でありながら、その力の使い方が分からずにいることに胸を痛めているのだろう。記憶を喪っているのだから、それは致し方のないことであり、これからゆっくり取り戻していけばいいとヴィルジールは思っているのだが。

 ルーチェは、そうではないようだ。

「……聖女か」

 ヴィルジールは小さく吐くと、ルーチェの後ろに聳える大きな木の下に行き、そこに背を預けるようにして座り込んだ。

 ルーチェが驚いたように目を見張っていたが、ヴィルジールは目を合わせずに瞼を下ろした。

 目を閉じて耳を澄ませると、色々なものが聞こえてくる。頭上の枝にいる鳥たちの囀り、木々を揺らす風の音、練兵場で訓練をしている騎士の声。それらをぼんやりと聞きながらここで一息つきたくなるのは、決まって疲れが溜まった時だ。

 隣にルーチェが座る気配がして、ヴィルジールは目を開けた。

「お疲れのようですね。顔色が悪い気がします」

 ルーチェはヴィルジールの深い青色の瞳を真っ直ぐ見上げ、困ったように眉を下げる。

「……夢見が悪かった所為かもしれない」

「どんな夢を?」

「よく分からない」

 よく分からないというのに、悪いと仰るのですが、とルーチェが首を捻る。その細い手がヴィルジールに伸びてきたかと思えば、次の瞬間には額に押し当てられていた。

 ──今、何をされているのだろうか。

 硬直しているヴィルジールの顔の前にいるルーチェは、ううんと唸りながら、自身の額にも手を当て、瞬きをしながら少し上を見ていた。

「……ルーチェ」

 名を呼ぶと、ルーチェは呼吸を忘れたような顔をしてから、ヴィルジールから手を離した。そのまま物凄い勢いで後ろにカサカサと下がると、ぱっと正座をする。

 ヴィルジールはルーチェが何をしていたのか、そして何故逃げるように後退したのかが分からず、薄い唇を開きかけたまま固まった。

 次の瞬間、ルーチェが両手を前に着きながら深々と頭を下げた。

「申し訳ございません…!許可もなく、触れてしまい」

「別に構わないが、何をしようとしていたんだ」

 ルーチェはええと、と歯切れの悪い返事をしてから、目を泳がせていた。その様子から、悪いことをしようとしていたわけではなさそうだ。

 暫くの間、ヴィルジールは一方的にルーチェを見つめていたが、それに耐えかねたのかルーチェが目を合わせてきた。

 菫色の瞳に、不思議な顔をしている自分が映っている。

「熱を、測ろうとしていたのです」

 ヴィルジールは目を瞬いた。

「触れただけで分かるのか?」

 ルーチェが頷いて、目を白い手へと動かす。

「触れた相手の身体に不調があったら、伝わる……ような気がして」

 曖昧な言い方をしたのは、不確かなものだからだろう。それは聖女の力なのか、ルーチェだけが持つ特別な力なのかは分からないが。

 触れて、確かめる。まるで母が子にするようなことをされたのは、いつ以来だろうか。声も顔も分からない母親のことを思い出したヴィルジールは、それを振り払うように目を閉じて、ルーチェの名を呼んだ。

「ならば肩を貸せ」

「肩を、ですか?」

 戸惑いながらも、ルーチェが寄ってきて、隣に腰を下ろす気配がした。風でふわりと揺れたルーチェの髪が、ヴィルジールの頬を掠める。

 どことなく懐かしい花の匂いに誘われるように、ヴィルジールはもう一度瞼を下ろした。
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