亡国の聖女は氷帝に溺愛される

灯る熱

 セントローズ公爵。世間ではそう呼ばれている男は、オヴリヴィオ帝国の西の国境地帯を治めている。

 広大な領地と強固な軍を有しており、その身分は公爵──王族に次ぐ地位だ。その娘はヴィルジールの父親に嫁ぎ、王子も姫君も産んだ功労者であるが、十年前に処刑されている。

 現皇帝である、ヴィルジールの手によって。

「──面をあげよ」

 冴え冴えとしたヴィルジールの声で、セントローズ公爵──アゼフ・セントローズは顔を上げた。齢六十を過ぎており、もう高齢ではあるが、そう感じさせない威厳と風貌の持ち主だ。

「お目にかかれて光栄でございます。皇帝陛下」

「用件は何だ?」

「恐れ多くも、皇帝陛下にお目にかけたい者がおりまして。本日はその者をここに連れてきました」

 アゼフは片膝をついたまま背後を見遣る。彼の斜め後ろには白いローブを羽織る少女が、彼に倣うように頭を垂れていた。

「さあ、ご挨拶を」

 アゼフの言葉に頷いてから、少女はゆったりとした動きでフードを下ろした。

 黄金の色の長い髪がこぼれ、美しい純白のドレスを撫でるように揺れる。雪のように白い肌に、菫の花を思わせる瞳。艶やかな桃色の唇は、春に実る果実のようだ。

 目と目が合った瞬間、ヴィルジールは頭の奥で痛みを感じた。

「皇帝陛下に拝謁いたします」

 少女は立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。その足先はヴィルジールが座る玉座へ向けられている。

 少女との距離が縮まるほどに、ヴィルジールの頭痛は強くなっていった。短い階段の下に立つエヴァンが、ヴィルジールと少女を交互に見ては焦った顔をしている。

 ひときわ強い痛みを感じた瞬間、ヴィルジールの身体は凄まじい冷気を帯びて、少女との間に分厚い氷の壁を生み出していた。

 だが、それはほんの一瞬で砕け散った。──かと思えば、瞬きをひとつした瞬間に、光の粉に変わり、辺りを眩しくさせた。

 目の前にいる、美しい少女の指先によって。

「御前で許可なく力を使ったこと、お許しください」

 ヴィルジールは片手で頭を押さえながら、ふらりと視線を持ち上げる。

「……お前は?」

「わたくしはレイチェル。イージス神聖王国の聖女だった者です」

 レイチェルと名乗った少女は唇を薄く開くと、小鳥が歌うような声で返した。

「イージスの聖女だと?」

 飛び立つ勢いでヴィルジールは玉座から腰を上げたが、くらりと目眩がして、すぐに座り直した。エヴァンの隣にいるセシルが駆け寄ってきて、心配そうに顔を歪めている。

「いかにも。こちらにも聖女様がおられると聞いたのですが、御目通りは叶いますでしょうか?」

 感情の見えない菫色の瞳は、ヴィルジールだけを見つめている。その眼差しは圧倒するような何かを宿していて、視線が絡まるだけで気持ちが悪くなった。

 ヴィルジールが耐えかねたように口元にも手を当てたその時、柔らかな焦げ茶色の髪が視界を覆った。

「聖女様はお休みになられておりますので、別の日に」

 盾となるように、エヴァンがヴィルジールとレイチェルの間に立つ。それを隙と判断したのか、セシルがヴィルジールの腕を肩に乗せ、力強く引き上げた。

「兄上、少し休みましょう。顔色が悪いです」

「………エヴァン」

 セシルに半分担がれるようにして立ち上がったヴィルジールは、間に割って入ってくれたエヴァンの名を呟いた。一瞥もくれてやれないというのに、エヴァンはいつものようににっこりと笑って、ヴィルジールに一礼する。

 そして凛と視線を正すと、宰相の仮面を被った。

「セシル皇子、陛下をよろしくお願いいたします」

「お任せください。さあ兄上、行きましょう」

 セシルに引き摺られるようにして、ヴィルジールが玉座の間を出ていく。見届け終えたエヴァンは、レイチェルと名乗った少女を玉座の隣から見下ろし、焦茶色の目を細めた。

「…ご気分が優れないのでしたら、わたくしが癒しましたのに」

「結構ですよ。我が国にも聖女様がおりますので」

 エヴァンは微笑みを飾りながら、ゆっくりと短い階段を下りていった。
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