亡国の聖女は氷帝に溺愛される

閑話「禁色のドレス」

 それは、今にも雨が降り出しそうだった、とある日の朝の出来事だ。

「──エヴァン。今すぐここに来い」

 上司からの絶対命令で、エヴァンは作業の手を止めた。

 三徹で凝り固まっている筋肉をほぐすために、手始めに肩をぐるぐると回す。目の下の隈が少しでも和らぐよう、目の周りを軽く押してから、エヴァンはくるりと振り返った。

「何でしょう? 陛下」

「何を意味の分からない体操をしている? 今すぐ来いと言ったら、瞬時に駆けつけろ」

「すみませんねぇ。三日間まともに寝れてないので、朝日は眩しいし身体は重いし上司は鬼だしで、僕はもうくたくたなんですよ」

 エヴァンがにっこり笑顔で思っていることをそのまま口にすると、目の前にいる上司──この国の皇帝のご尊顔に、ぴくりぴくりと青筋が浮かんだ。

 だがエヴァンは気にしない。このようなやり取りを星の数ほどしてきたからだ。そして、許されることも知っている。

「……ならば今すぐ気絶させてやろう」

 氷帝の渾名を持つ皇帝・ヴィルジールは立ち上がると、その名に相応しい冷気を片手に纏わせると、彫刻品のように美しい短剣を生み出した。

 見ているだけで寒々しい色をしているし、触れでもしたら指先から凍りついてしまいそうだ。

「気絶!? それはつまり、僕に休みをくださるということでしょうか!」

 エヴァンは嬉々とした表情で、両手を広げた。さあ来い、と言わんばかりに。

 気絶させてくれるということは、強制的に意識を失うことになる。それ即ち、肉体も精神も休むことになるだろう。

 年中無休で働かされているエヴァンは、それはもう嬉しくて仕方がないといった顔で皇帝──ヴィルジールの目の前に迫った。

「……はぁ」

「おや?気絶させてくださらないのですか?」

 ヴィルジールは不快そうに眉を顰めると、氷の短剣を消した。

「気が変わった。気絶するまで働け」

「ええ、そんなぁ」

 ヴィルジールは椅子に座り直すと、書きかけの書類にペンを走らせ始めた。

(全くもう。なんだかんだで僕のことが好きなんですから)

 エヴァンは心の中で微笑みながらヴィルジールを眺めていたが、思っていることが伝わっていたのか、ジロリと睨まれてしまった。

 慌てて咳払いをし、くるりと背を向けて仕事を再開する。

「……あ。そういえば陛下」

「何だ」

「先日の晩餐会で聖女様が着ていたドレス、どうでした?」

 先日の晩餐会とは、言葉の通り数日前に開かれたものだ。この国の皇帝の命を救ってくれた聖女を皇帝自らが労い、面と向かって感謝を伝えるために、エヴァンが提案したものである。

「……ドレスの感想を求めているのか?」

「ええ、そうです。聖女様の瞳の色に合わせた、美しい菫色のドレスでしたでしょう?お似合いでした?」

 ヴィルジールの手が止まる。それから難しい顔をしながら、長い脚を組んだ。

「…似合っていたかそうでないかと聞かれたら、似合っていたとは思うが」

「えー、ぴったりばっちりお似合いになると思って選んだのですが、なんですかね、その納得がいかないような返事は」

「俺の趣味じゃないからだ」

 エヴァンはぱちくり、と目を瞬いた。

「陛下に趣味ってあったんですか?服選びは年中侍従に任せっきりでしたよね?」

「だから何だ。ルシアンを信頼して任せているだけだが。…貴様は俺が自分で着る服すら選べないセンスのない野郎だとでも思っているのか?」

 実は思ってました、と言いかけた口をエヴァンは閉じ、誤魔化すように笑った。

 今のを挑発と捉えたのか、ヴィルジールが唇を横に引く。

「……エヴァン。聖女に式典の招待状を送れ」

「と、言いますと?」

「無論、ドレスを届けさせる。俺が選ぼう」

 エヴァンは心の中でガッツポーズをした。

 ヴィルジールの下僕となって十年、友人としては二十年の付き合いだが、彼が自分で服を選ぶの姿は一度も見たことがない。贈り物もそうだ。いつだって、侍従もしくはエヴァンに一任していた。

 そんなヴィルジールが、自ら選んだドレスを女性に贈るという。これほど世にも珍しいことがあるだろうか。

 エヴァンは踊り出したい気持ちを抑えながら、残りの仕事に取り掛かった。



 ヴィルジールはどんなドレスを選んだのだろうか。その答えを知ったのは、式典当日だ。

 式典の日。エヴァンは朝から慌ただしくしていた。非社交的で口下手ですぐに機嫌を悪くするヴィルジールに代わり、色々なことをしなければならないからだ。

 司会の台本を流し読み、賓客一覧を眺めていると、長らくヴィルジールに仕えている侍従・ルシアンがエヴァンの前に現れた。

「エヴァン様。ソレイユ宮に迎えの馬車を送りました」

「ありがとうございます。騒ぐ輩が出ると思うので、アスランを迎えに行かせてもらえませんか?」

「デューク卿をですか? 女性のエスコートなんて嫌がられそうですけど」

 ムッとするルシアンを見て、エヴァンはけらけらと笑った。

 アスランとは、帝国騎士団の副団長を勤めている青年の名だ。エヴァンとヴィルジールとは幼馴染であり、幼少期からの付き合いだ。

 気難しい──いや、かなり面倒な性格だが、ヴィルジールとは馬が合うらしく、よく酒を飲み交わしている。ちなみに、エヴァンは全く飲めない。

「嫌がるとは思いますが、聖女様の身に何かあっては大変なので。ね?お願いしますよ」

「……わかりました。伝えてきます」

 ルシアンは気が進まない様子だったが、宰相であるエヴァンの頼み事は断れないのか、とぼとぼと歩いていった。
 ほどなくして、来賓たちが列を作って会場入りをした。

 その中に聖女も混ざっているのだろうか。探して挨拶をしたかったが、仕事に追われてそれどころではなくなってしまった。

 それから、開会の挨拶をし、例年通りに式典を進めていく。エヴァンが用意した完璧な原稿──という名のカンニングペーパーを初めて見た時のヴィルジールの顔は見もので、日頃の仕返しに画家に描かせようかとも思ったが、後が怖いのでやめた。


 式典が終わり、参加者がグラスを片手に談笑を始めた頃。

 周辺諸国の要人に挨拶周りをしながら会場を歩いていると、ヴィルジールが階段を下りてくるのが見えた。

 その下では美しく着飾った貴族のご令嬢たちが、黄色い声を上げながら待ち構えている。他国の王女が大臣を伴い、ヴィルジールの美しい顔をうっとりと眺めている姿も見えた。

(あー、これは大変ですねぇ)

 ヴィルジールは彼女たちに一瞥もくれてやらない。何故なら女嫌いだからだ。

 正確に言うと、これまで異性との関わりが全くなかった為、どうしたらいいのか分からないというのと、興味がないという気持ちで半々だとは思うのだが。

 瞬く間に囲まれたヴィルジールを救い出しに行くべきか迷っていると、ふいにヴィルジールが一点を見つめたまま歩き出した。

 探し物が見つかったような表情をしている。
 ヴィルジールが見つめる方角を見遣ると、そこには同じく人に囲まれている聖女の姿があった。

 そのドレスを見て、エヴァンは大きく目を見開いた。

(────禁色)

 禁色とは、王族のみが着用を許されている色のことだ。大きな功績を立てた臣下に、その色の物品が贈られることもある。

 エヴァンはヴィルジールが皇帝に即位した時に、禁色のタイと胸ポケットに差し入れるペンのレプリカが贈られた。アスランには剣帯と短剣だ。

 聖女の元へと突き進むヴィルジールに道を開けるように、人々が左右に分かれると、聖女の全身がよく見えた。

 そのドレスは、鮮やかな青色だった。おとぎ話の人魚姫を思わせるデザインで、裾には煌びやかな宝石が散りばめられ、首から胸上にかけてレースが編まれている。

 ヴィルジールが聖女に手を差し出し、聖女がそれを取る。そして歩き出したふたりに、人々の目は釘付けだ。

(………美しいドレスですね)

 刹那、ヴィルジールと目が合う。

 深い青色の瞳は、いつもよりほんの少しだけ、煌めいて見えた気がした。
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