亡国の聖女は氷帝に溺愛される

イージスの聖女

 ヴィルジールが笑った。これまでで一番柔らかく、あたたかく、とても優しく。初めて見るその表情に、ルーチェの目は釘付けだ。

 深い青色の美しい瞳に、口をぱくぱくとさせている自分が映っている。よく考えてみたらとんでもなく近い距離だ。高鳴る心臓の音が、彼の耳に届いてしまうかもしれない。

 ルーチェは慌てて距離を取り、両手で顔を覆った。

「ルーチェ?」

 ヴィルジールがベッドを降りて、ルーチェの元へと歩いてくる。

 庭で会った時のように、ルーチェは必死に後ろに下がったが、背中が壁にぶつかってしまった。行き止まりだ。

 歩み寄ってきたヴィルジールが、ルーチェの目の前で膝をついた。

「なぜ逃げる」

「そ、それは…ヴィルジールさまが」

「俺が?」

 ぐっと近づいたヴィルジールの顔が、ルーチェの顔を至近距離で覗き込む。指の隙間から覗くと、思いきり目が合ってしまった。

 ルーチェは顔を赤く染めながら、精一杯の声を張り上げる。

「ヴィルジールさまが、心臓に悪いことをなさるからです…!」

 言い終えた後、ルーチェは肩を上下させながら、恨めしげな目でヴィルジールを見上げた。

 ルーチェの言葉の意味が分かったのか、ヴィルジールの眉が少しだけ下がる。

「…それは悪かった」

 ぽん、とルーチェの頭に大きな手が乗る。つい先ほどまで繋いでいた右手だ。

(……ヴィルジールさまの、ばか)

 急に触れてきたかと思えば、びっくりするくらい近くに顔があって。今度は笑って、また近づいて、ルーチェに触れた。
 ヴィルジールのせいで、感情がぐちゃぐちゃだ。

「機嫌を直してくれないか」

「別に悪くしてはおりません」

「ならどうしてそっぽを向いている」

「左を向きたい気分なのです…!」

 ヴィルジールが真摯な目で見つめてくるので、ルーチェは顔ごと逸らしていた。今目を合わせたら、どうにかなってしまいそうだったからだ。

「……ルーチェ」

 ヴィルジールがゆっくりと腰を上げる。手を差し伸べてくるのが視界の端に映ったが、ルーチェはぷいっと横を向いたまま、膝を抱えて座り込んだ。

 自分でも、どうしてこんなことをしているのかは分からない。だけど、くすぐったい気持ちで胸が膨れ上がって、このもまでは破裂してしまいそうなことだけは分かっていた。

「……ケーキが、食べたいです」

 誤魔化すように吐いた小さな声に、ヴィルジールがはっきりと頷く。

「ならばまた一緒に食事をしよう」

 思いがけない提案に、ルーチェは息を呑み、ヴィルジールを見上げた。


 大事をとって休んでもらうために、ルーチェはヴィルジールをベッドに戻してから寝室を出た。
 廊下に戻ると、セシルが壁に背を預けて立っていた。

「…セシル様?」

 セシルは立ったまま寝ていたのか、ルーチェの声で弾かれように顔を上げた。

「ルーチェ様! 兄上の様子はいかがでしたか?」

「目を覚まされましたよ。少しだけ、お話も」

 見舞ってはどうかとセシルに勧めたが、彼はやんわりと首を左右に振った。

「ゆっくりと休んで頂きたいので、また後日お伺いいたします。兄上は昔から仕事ばっかりで、倒れるまで働いていたので」

 ルーチェは苦笑を零した。

「ヴィルジールさまらしいですね。…でも先日、夜更けにお散歩されていましたよ。気分転換のようでした」

「散歩?兄上がですか?」

 セシルは信じられないとでも言いたげな顔をして、ヴィルジールの寝室の扉を見つめる。頷くルーチェと交互に見た後、ほっとしたように頬を緩めた。

「そうでしたか。しばらくお会いしないうちに、随分と変わられたようで」

 歩き出したセシルの隣に並び、階段を下りる。下りたところで左右を見ると、執務室の前でアスランといるエヴァンが手を振ってきた。

「ルーチェ様ー!陛下に何かされてはおりませんかあ〜!?」

「……!?」

 エヴァンの大きな声が廊下に響き渡る。
 セシルは瞠目し、ルーチェは反射的に半歩足を引いていた。

(な、何かって…!)

 エヴァンとアスランがこちらに向かって歩いてくる。

 頬が熱を持っているような気がして、ルーチェは頬っぺたに触れた。やはり熱くなっている。

「なんだ、ジルの奴…国中のどんな女にも興味を示さなかったのに」

「夜這いに来た、さるご令嬢を凍らせてましたしねぇ」

「仕事が恋人だとか言ってたな」

 エヴァンがルーチェを見ては、楽しそうに語り出す。それに乗るように、アスランも同調するように頷いている。

「勇気を出してダンスを申し込んだ女性に、一人で踊っとけ、と突き放してましたね」

 今度はセシルが愉しそうに笑った。どれもこれもヴィルジールが過去に女性に対してやってしまったことだというのは分かったが、何故それをルーチェに聞かせるように話しているのだろうか。

「あ、セシル様。どなたの手も取らなかった陛下ですが、式典の日にルーチェ様と踊られたのですよ。自ら選んだドレスを贈って!」

「………あの兄上が」

 三人の視線が、一斉にルーチェへ向けられる。
 ルーチェは堪らなくなって、その場から逃げ出した。
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