亡国の聖女は氷帝に溺愛される

喚び声

 白い空を、花弁が泳いでいる。
 見渡す限り真っさらな空には、色とりどりの花弁が浮いていた。風は吹いていないというのに、不思議なものだ。

 ひとつくらい掴めるだろうかと思い、手を伸ばしてみる。だがこの手が掴んだのは花弁ではなく、誰かの手だった。
 ルーチェは誰かと、手を繋いでいる。

(───誰?)

 ルーチェは瞬きひとつせずに、自分の手を見つめた。そこには何もいないように見えるが、確かに誰かの手の感触がある。

 姿が見えない誰かと手を繋いだまま、ルーチェは辺りを見回した。

 雪色の空の下では、瑞々しい緑が広がっていた。間を流れる水は、光を受けて神秘的な光を放っている。その奥に巨大な建物が聳えているのを見つけ、ルーチェは目を瞬いた。

(──知っている、気がする)

 建物を囲う無数の白い柱。何かを描くように張り巡らされている水路。建物の最上階から滝のように流れ落ちる青い水。
 目に映る全てを、ルーチェは知っている。

(もしかして、ここは)

 引き寄せられるように足を動かしたその時、ルーチェの目の前が光り出した。

 膨大に膨れ上がった光の中から、人影が浮かび上がる。眩い光を放ちながら鮮明になっていくその姿を見て、ルーチェは目を大きく見開いていった。

 いつかの日に、光で満たされた空間で会った青年が、目の前に佇んでいる。
 黄金色の髪は風に揺蕩い、ぱっちりと開かれた瞳は碧く、強い意志を宿している。

『──目を醒ましておくれ。私の聖女』

 柔らかな声が、ルーチェの鼓膜を揺らした。 

「……あな、たは…」

 誰ですか、と奏でようとした声は、繋いでいた手が離れたことにより途切れた。

 身体が急降下していく。景色は白い空から、闇一色へと変わった。不安で堪らなかったが、ルーチェは空へと手を伸ばし続けた。
 


 まぶたを開けると、驚いた顔をしているヴィルジールが、ルーチェを見下ろしていた。

「……………」
「……ヴィ…ジール、さま?」

 目と目が合ってから、ほんの数十秒。たったのそれだけでもとても長く感じられたルーチェは、耐えかねたように口を開いていた。

 声は掠れていた。上半身を起こしたルーチェは、どうしてヴィルジールが傍にいるのかと尋ねようとしたが、声は喉元を越えず、咳が出てしまった。

 咳き込むルーチェの背に、ヴィルジールの手が添えられる。そっと摩る手つきは優しく、温かかった。

「……身体は」

 咳が止むと、ヴィルジールはルーチェがいるベッドに浅く腰掛け、手を伸ばしてきた。

 大きくて広い手がルーチェの額に当てられる。いつかルーチェがそうしたように、熱の有無を確かめているのだろう。分かってはいても、鼓動が跳ねた。

「大丈夫、です」

「そうか」

 ヴィルジールはルーチェから手を離すと、ベッドサイドにある小さなテーブルに手を伸ばし、透明なポットと取手付きのグラスを手に取った。慣れた手つきで水を注ぎ、ルーチェの手に持たせる。

 ルーチェは手渡された水をゆっくりと飲んでから、深く息を吐いた。

「ここはお城でしょうか?」

 ルーチェの問いに、ヴィルジールは頷いた。

「俺の部屋の隣だ。物置部屋だが」

 ルーチェは目を瞬かせながら、部屋を見回した。室内にはルーチェがいるベッドと小さなテーブルしかない。どこが物置部屋なのだろうか。

「隣の物置部屋…」

「様子を見に行くのに、遠いと不便だろう」

 ルーチェは首を傾げた。ヴィルジールが自らルーチェを訪ねてきてくれた時は、いずれも客間だった。客間は城の中心地である居館ではなく、ソレイユ宮のようにややはずれた場所にある。

 対して、ヴィルジールの私室は彼の執務室の真上だ。馬車で十分と、壁一枚隔てた向こう。この距離の差はなんだろうか。

(それに、今の言い方だと…)

 ルーチェは手元のグラスから、ヴィルジールへと視線を移した。

 艶やかな銀髪は爽やかにセットされ、胸元のタイはきちんと結ばれている。これから仕事に向かうのか、抜け出してきたのかは分からないが、ルーチェを見つめる眼差しにいつもの鋭さはなかった。

 様子を見にきたら、ちょうどルーチェが目を覚ましたので、驚いていた──というところだろうか。

 ふ、と。ヴィルジールの唇の端が少しだけ上がる。
 彼は安堵したように息を吐くと、ベッドから立ち上がってポケットに手を突っ込んだ。

「腹は減っていないか」

「ええと…はい」

 ルーチェはお腹に手を当てながら小さく頷いた。どれくらいの間眠っていたのか分からないが、お腹は空いている。

「すぐに用意させる。少し待っていろ」

 ヴィルジールはルーチェを一瞥してから、早足で部屋を出て行った。

 入れ替わるように現れたのはセルカだった。ルーチェの体調を気遣う言葉を掛けると、ふらつくルーチェを支えながら、少し歩いたところにある浴室に連れて行ってくれた。

 だが、扉を開けた先の景色を見て、ルーチェは固まっていた。

「ここは陛下専用の浴室にございます」
「………え?」
「お部屋から一番近いのでこちらを使うように、と」
「……ええ、と…」

 困惑するルーチェを余所に、セルカが素早く服を脱がせていく。広いバスタブに張られているお湯は青く、嗅いだことのある匂いがして、ルーチェはくらくらしそうになった。
 
 髪と身体を洗われ、柔らかいタオルそのもののような服に袖を通したルーチェは、セルカに髪を乾かしてもらっていた。

 梳いてもらい、水気のなくなった髪に鼻を近づけると、やはり記憶にある匂いがする。

(…このにおい、ヴィルジールさまと同じだわ)

 甘すぎない花のような、青い果実のような。彼の上着や、抱き止めてもらった時に香ったものと同じだ。

 彼が使っている浴室を使わせてもらったのだから、同じ香りがするのは当然だが、恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちで、胸の中から何かがこぼれそうだった。

 髪を乾かし終えた後は、肌触りのよいシンプルなワンピースに着替え、元物置部屋ことルーチェが寝ていた部屋に戻った。

 中に入ると、コック帽を被った男性が深々と頭を下げてから、入れ替わるように部屋を出ていく。

 いつの間に運んでいたのか、ヴィルジールがお盆を手に椅子に座っていた。

「戻ったか」
「は、はい…。あの、ヴィルジールさま」
「話は後だ。今はこれを食え」

 ルーチェは小さく頷いてから、ベッドサイドに腰を下ろした。

 ヴィルジールが持つお盆の上には、白い深皿が乗っている。立ち上る湯気からは、薬のような匂いがした。

「スプーンは持てるか?」

「も、持てます…!」

 ヴィルジールは「そうか」と零すと、お盆を持ったままルーチェの隣に座り、木のスプーンを右手に握らせた。その拍子に少しだけ触れたヴィルジールの指先は、今日は熱く感じられた。
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