亡国の聖女は氷帝に溺愛される
こぼれる想い
目を開けると、真っ先に飛び込んできたのは、息を呑むほど美しい青色の瞳で。見つめ返すと、ゆっくりと見開かれていった。
「ルーチェ。俺の声が聞こえるか」
ルーチェは瞬きをしながら頷いた。
ヴィルジールは静かに「そうか」と吐くと、安堵したように表情を緩めた。
目を閉じて、意識の中で聖王と話をしてから、どれくらい経ったのだろうか。窓を見遣ると、それほど時は経っていないのか、外はまだ明るかった。
ヴィルジールへと視線を戻すと、彼は真っ直ぐにルーチェを見つめていた。何かを確かめるようにルーチェの耳に触れ、そのまま首筋へと指先は下りると、鎖骨で止まった。
「目を、覚まさなかったら…国中の医師を呼びつけるところだった」
こてん、とルーチェの肩にヴィルジールの頭が乗る。さらりとこぼれた銀色の髪からは、つい先刻使わせてもらった浴室で嗅いだものと同じ匂いがして、くらくらとした。
ほのかに甘いその香りは、ヴィルジールの匂いだ。鼻を擽られると、落ち着かなくなる不思議な匂い。
肩に乗ったヴィルジールの頭は、そこから動かない。その重みと温もりに、肌を掠める彼の吐息に、ルーチェの心臓は悲鳴を上げそうになった。
「ヴィ、ヴィルジールさま…?」
いつもなら、抑揚のない声で「何だ」と返されるが、今のヴィルジールは何も言わなかった。ただ黙って、ルーチェの肩に頭を預けてきている。
それほどまでに、心配を掛けてしまっていたのだろう。
「……ヴィルジールさま。大丈夫ですか…?」
そう問いかけると、肩が軽くなった。
ヴィルジールが顔を上げたが、苦々しい表情を浮かべている。
「それは俺の台詞だ。…突然泣き出すなり、意識を失って。何度目だと思っている?」
「に、二回目でしょうか…?」
「もっとだろう」
ヴィルジールは重い溜め息を吐くと、ルーチェの背に添えていた手を離した。その手の動きで、ルーチェは今、とんでもない場所にいることに気がついた。
(ど、どうして私、上に…?)
ルーチェは今、彼の執務室のソファの上にいる。正確には、ソファに座るヴィルジールの膝の上に。
目を閉じる直前に抱きしめられていたのは覚えている。恐らくその後、意識を失ったルーチェを抱き上げ、運んだ先が──彼の膝の上、だったのだろう。
何故ここに、と問いたいが、沸騰しそうなくらいに熱い顔が、彼の目にはどう映っているのか気になって仕方がなくて、両手で顔を覆った。
「……吐き気があるのか。それとも熱が出てきたのか」
「い、いいえ…! 違うのです」
「ならば何故、顔を隠している。今から宮廷医を呼ぶか」
「だ、大丈夫ですから…!」
こうなったのはヴィルジールの所為だと訴えたいが、今はそれどころではない。一体どうしたものかと思ったその時、ヴィルジールがルーチェの手首を握った。
「顔を見せろ。さもなくば宮廷医を呼ぶ」
恐ろしくあまい声に、ルーチェはひゅっと息を呑んだ。仕方なく顔を覆っていた手を下げると、視界いっぱいにヴィルジールの顔があった。大きくて広い手が、再び背中に添えられる。
ヴィルジールは暫くの間、無言でルーチェの顔を見つめてきた。膝の上に乗せられ、逃げられないように手を添えられ、間近で見つめられ──ルーチェは倒れてしまいたくなった。
だがそうなったら、今度こそ国中の医師が呼ばれてしまう、気がして。それだけは駄目だと、止めなければと自分に言い聞かせながら、込み上がる羞恥心と闘った。
ヴィルジールはルーチェの額に手を当てたり、首筋に触れたり、脈を確かめるような動きを繰り返した。そうしてようやく納得したのか、ルーチェから手を離した。
「……どうやら熱はないようだな」
「言ったではありませんか。大丈夫だと」
「信用ならない。目の前で四度も倒れられてはな」
うう、とルーチェは言葉を飲み込んだ。何度かヴィルジールの前で気を失ったことはあったが、まさか数えられていたとは。
「倒れたくて、倒れたわけではないのです」
「そんなことは分かっている」
ヴィルジールの長い睫毛が揺れる。
次の瞬間には、端正な美しい顔に、泣きそうなくらい柔らかな表情が浮かべられていた。
「目を醒まして、よかった」
それは、雪解けの春のような淡い微笑みだった。こんなにも優しい顔をしているヴィルジールを見るのは初めてで、ルーチェの目は釘付けになった。
そんなふうに、笑う人だったのかと。こんなにも優しく笑える人だったのだと、知った瞬間だった。
胸の奥深くから、じわりとあたたかいものが溢れてくる。それは瞬く間にルーチェの胸いっぱいに広がり、こぼれ落ちそうなくらいに心を満たしていった。
(わ、笑ってる……ヴィルジールさまが…)
目を醒ましてよかったと、そう言ってから、彼は笑ったのだ。
ルーチェは綻ぶように笑ってから、はい、と返した。
それから、ヴィルジールは気が済んだのか、膝の上に乗せていたルーチェをソファの上に移動すると、立ち上がって伸びをした。仕事が溜まっているのか、書類や本が積まれている執務机の前に行き、渋々といった様子で椅子に腰を下ろした。
しなやかな指先はペンを掴んだが、深い青色の瞳はルーチェへと向けられた。
「意識を失ったお前は、ほどなくして優しい夢を見ていたようだった。その記憶はあるか」
ルーチェは両手を膝の上で重ね合わせ、目を細めながら頷いた。
「──はい。声が、聞こえていたのです。聖王様の声が」
ルーチェの声に、ヴィルジールが驚いたように目を見張る。夜の海のような双眸を見つめ返しながら、ルーチェは聖王──ファルシと言葉を交わしたことを、ぽつりぽつりと語っていった。