亡国の聖女は氷帝に溺愛される

閑話「ありがとうの気持ちを」


 ルーチェは天気が良い日は鳥の囀りで目を覚まし、雨の日はセルカに声をかけられて起きている。お天気に左右されていることを知ったのは、ここ最近のことだ。

「おはようございます、ルーチェ様」

 部屋のドアの向こうにいるセルカが、ノックをしてから入ってくる。

「セルカさん、おはようございます」

 外は雨だというのに、珍しく一人で起きることができていたルーチェは、水瓶とタオルを抱えて入ってきたセルカに挨拶を返した。

 セルカは驚いたように目を見張っていたが、すぐに目元を和ませた。

「今日は何かご予定がおありでしたか?」
「いいえ。目が覚めてしまっただけです」

 ルーチェは苦笑を浮かべながら、セルカが持ってきてくれた水で顔や手を洗った。そうこうしているうちに、セルカが服や履き物を選び、軽く身支度を整えてくれる。

 淡い翠色のロングワンピースに着替え、化粧台の前に座っていると、櫛を手に背後にやってきたセルカが何かを思いついたような声を上げた。

「──特にご予定がないのでしたら、今日は陛下に差し入れをしては如何でしょう?」

「差し入れ、ですか?」

 目を瞬かせているルーチェに、セルカは微笑みながら頷いた。


「──というわけなのです。ヴィルジール様がお好きなものを、教えていただけないでしょうか?」

 朝食後、中庭で軽く散歩をしてから、ルーチェはエヴァンの元を訪れた。

 ヴィルジールの片腕として宰相を務め、幼馴染でもあるエヴァンなら、彼の好みをよく知っているのではないかと思ったからだ。

 以前ヴィルジールの口から、肉やワインが好きだと聞いてはいるが、他にもあるのではないかと。

「ほほー、陛下の好きなものですか」

 宰相の執務室で書類の山に囲まれていたエヴァンだったが、ルーチェが訪ねてくるなりヴィルジールのことを訊かれたので、すぐに書類の一山を視界の端に追いやった。
 無論、その山は床の上で散り散りになっているのだが。

「勿論存じておりますよ。でも突然どうしたのですか?」

 にっこりと笑うエヴァンに、ルーチェは気恥ずかしそうに笑いながら答える。

「ヴィルジールさまには頂いてばかりなので、お返しや日頃の感謝をお伝えしたくて…。何か甘いものでも差し入れようと思っているのですが、迷惑でしょうか?」

「いやいやいやいや、迷惑どころか感謝感激雨嵐ですよ!」

 ルーチェはぱあっと顔を明るくさせた。

「ではエヴァン様。私でも作れる物で、ヴィルジール様のお好きなものを教えてください」

「勿論ですよ。では厨房に行きましょうか」

 エヴァンは満遍の笑みで書類の山をもう一つ薙ぎ払った。ただでさえ散らかっていた執務室は、今や言葉にし難いほど悲惨なことになっている。

 ルーチェの後ろで控えていたセルカは、散らかり放題な部屋を見回してからエヴァンを見た。

「宰相様。お仕事は良いので?」

「これから休憩です。ここ最近、陛下が休憩時間をくれるようになったのですよ。いやぁ、春が来るって凄いですねぇ」

「…今は秋では」

 溜め息を吐くセルカを余所に、エヴァンはルーチェにエスコートの手を差し伸べ、軽い足取りで歩き出した。

 厨房に到着すると、エヴァンは料理長らしき男性に声を掛け、ルーチェとセルカを連れて奥へと向かった。

 そこは多くの料理人達がいた空間よりも狭いが、一通りの調理器具が揃っていて、セルカが感心したように眺めている。

「さて、ルーチェ様。陛下がお好きなものですが」

「はい、エヴァン様」

 エヴァンは料理長と共に食材庫からいくつかの食材を持ってくると、ルーチェの目の前の大きなテーブルに広げてみせた。

「こちらの果物は陛下がとーってもよく食べているものでして!」

「鮮やかな赤色ですね。小さくて可愛らしいです」

「でしょうでしょう? なのでこちらを使ったお菓子なんてどうかなあと」

 ね? とエヴァンが料理長の顔を見上げる。
 料理長の男性は緊張で強張っているのか、引き攣ったように力なく笑っている。

「宰相殿。その果物は──」
「ルーチェ様が作ったものなら、何でもお喜びになりますねぇ!いやぁ、いいなぁ!羨ましいなぁ」

 ではどうぞ、とエヴァンが果実が入ったカゴをルーチェに差し出す。料理長とセルカは怪訝そうな顔をしていたが、ルーチェは気にせずカゴを受け取り、料理長へ頭を下げた。

「お仕事中に申し訳ありません。ルーチェと申します。よろしくお願いいたします」

「は、はい……」

 重い足取りで調理器具を取り出す料理長と、その隣で腕を捲るルーチェを、セルカは心配そうな面持ちで、エヴァンはこの上ない笑顔で眺めていたのだった。

 それからルーチェは料理長直々に教わりながら、小ぶりなケーキを焼き上げた。お菓子を作ることは初めての試みだったが、良い出来栄えだと料理長は褒めてくれた。

 仕上げにクリームを塗り広げ、メインで使った赤い果実と紫色の小さな木の実、緑色の葉を添えると、中々良い見た目になった。

「──では、これから執務室にお邪魔してきます」

 セルカがメインの厨房から借りてきたカートの上に、ケーキとカトラリー類を乗せたルーチェは、料理長に改めてお礼を伝えた。

 だが廊下に出たところで、エヴァンが茶葉の缶を手に駆け寄ってきた。

「ルーチェ様! お飲み物はこれを」

「それは…紅茶、でしょうか?」

 エヴァンが持ってきたものは紅茶缶のようだ。見たことのない銘柄だ。それもヴィルジールが好きなものなのだろうか。

「ええ、そうです。これ、陛下がお好きなんですよ。甘いケーキと相性も良くて!」

「そうなのですね。ありがとうございます」

 ルーチェが笑って受け取ると、エヴァンはくるりと背を向け、身体を震わせ始めた。どこか具合が悪いのだろうか。

「エヴァン様?」

 エヴァンは「エヘン」と咳払いをすると、ルーチェと向き直った。

「失礼いたしました、クシャミが出そうでして。では陛下の執務室に参りましょうか」

「よろしくお願いいたします」

 セルカが物言いたげな顔つきでこちらを見つめていることに、ルーチェは気づかなかった。

 エヴァンの後ろを着いていくこと数分。執務室の前に到着すると、エヴァンがドアをノックした。

「失礼いたします、陛下。今よろしいでしょうか?」

「──エヴァンか。入れ」

 入室の許可が出ると、エヴァンがにっこり笑顔でルーチェを振り返る。

「では行ってらっしゃいませ、ルーチェ様」

「エヴァン様は入られないのですか?」

「ええ、私はこれで。陛下の反──どんなにお喜びになるか、この目で見届けたいところですが、仕事が溜まっているので戻らなければいけません」

 では、とエヴァンが脱兎の如く去っていく。

 エヴァンの執務室を訪ねた時に、凄まじい量の書類が積み上がっていたが、やはり忙しかったのだろう。そんな多忙な中で、ヴィルジールのためならばとルーチェに付き合ってくれたのだ。

 ルーチェは大きく息を吸い込んでから、失礼しますと声をかけて、執務室の中に入った。

 ヴィルジールはエヴァンではなくルーチェが入ってきたことに驚いたのか、書き物をする手を止めて目を見張っていた。

「──ルーチェ? なぜここに…」

「お仕事中に申し訳ありません」

「別に構わないが。何かあったのか?」

 ルーチェは小さく頷いてから、カートを室内に運び入れた。

「実は、ケーキを焼いたのです。ヴィルジールさまに食べていただこうと思いまして」

「……俺に?」

 驚くヴィルジールに、ルーチェははにかみながら頷いた。

「いつもお世話になっているので、何かお返しがしたかったのです。初めて作ったので、料理人の皆さんには敵いませんが……感謝の気持ちはたくさん込めました」

 ルーチェはケーキを覆っていた大きな蓋を退け、お皿をヴィルジールの目の前まで持っていった。ケーキを見たヴィルジールは、ルーチェでも分かるほどに目を丸くさせた。

「これを……お前が作ったのか?」

「はい。とはいっても、料理長様に手伝っていただきましたが。エヴァン様が、ヴィルジールさまはこの果物がお好きだと言っていたので、メインで使ってみました」

「…………エヴァンの奴」

 ヴィルジールが頭を押さえながら、短い溜め息を吐く。
 ルーチェはその姿を見て、胸元に手を寄せた。

「あの…その、ごめんなさい。お口に合うと良いのですが」

 ルーチェは手を握りしめながら、ごくりと唾を飲み干した。

 もしかしたらヴィルジールは、ごく僅かな人しか知らない自分の好物を、他人であるルーチェが知ったことに、嫌な気持ちになってしまったのではないかと思ったからだ。

「──いただこう。茶も入れてくれないか」

 気落ちしかけていたルーチェだったが、ヴィルジールの声で顔を上げた。

 エヴァンが選んでくれた茶葉で紅茶を淹れると、ヴィルジールは先にそれに口をつけた。だがとても熱かったのか、少し咽せてしまっていた。

「ヴィ、ヴィルジールさまっ…!大丈夫ですか?」

「問題ない」

「ごめんなさい、私はお湯加減すら分からなくて…」

「口の中が渇いていたから、驚いたんだ。…この茶はどこで?」

「それもエヴァン様が選んでくださいました。ヴィルジールさまがお好きだと聞いて」

 ヴィルジールは今度は長めの溜め息を吐いた。ティーカップを置くと、ポッキリと折りかねない勢いでフォークを手に取る。

 やはり嫌な気持ちにさせてしまっているのだろうか。居候であるルーチェが、好物を聞いて作ったものを差し入れるなんて。

「ごめんなさい、ヴィルジールさま。勝手に好みを聞いたりして。きっとお嫌でしたよね」

 「下げますね」とルーチェは言い、お皿を持とうとした。
 だが、ヴィルジールがルーチェの手首を掴んで止めた。

「勝手に下げようとするな。俺は何も言っていないだろう」

「ですが、お顔の色が…」

「これは………驚いているだけだ。だから気にしなくていい」

 ふ、と。ヴィルジールが唇を横に引く。

「有り難くいただく。……ありがとう、ルーチェ」

「………! 私の方こそ、いつもありがとうございますっ…」

 ヴィルジールは肉やワインだけでなく、甘い物も好きだったのか、顔に喜色を浮かべながらケーキを平らげてくれた。

(──よかった、食べてくださって。これからも時々、お菓子を作って差し入れようかしら)

 ヴィルジールの好きな物をまたひとつ知れたルーチェは、お菓子作りの本を借りて勉強しようと心に決めたのだった。



「──ルシアン。エヴァンを大至急ここへ」

 思いがけないティータイムを終えた後。
 ルーチェを見送ったヴィルジールは、口元にナプキンを当てながら侍従を呼んだ。

「エヴァン様でしたら、つい先程急を要する件で呼ばれたので、城を出られたそうですが」

「今すぐ呼び戻せ。騎士団を動かしても構わない」

「そ、それほどの御用がおありなのですね…?」

 ルシアンは伝書鳥を喚ぶ笛を吹き、急いでどこかへと向かった。

 執務室にひとり残ったヴィルジールは、外は雨だというのに窓を開け放った。そして大きく息を吸い込み、吐き出す。それを繰り返していると、執務室のドアが勢いよく開け放たれた。

「陛下!アスラン様がエヴァン様を捕まえました!」

 ヴィルジールは雨風で濡れた前髪を掻き上げながら、ルシアンを振り返った。

「──ご苦労。今すぐここに連れてこい」

 ぞくり、と。
 思考を妨げるほどの悪寒が背筋を駆け抜け、ルシアンは身震いした。

 ヴィルジールは息をするように出した氷の剣を手にすると、冷然とした表情でドアを見据えた。

「──お呼びでしょうか、陛下」
「──エヴァン。貴様、何のつもりだ?」
「何のつもりも何も、ルーチェ様が陛下に差し入れをしたいと仰っていたので、力になって差し上げただけですよー」
「頭がおかしくなるくらい甘ったるいあの果物と、一部の愛好家しか好まないあの渋い茶だけは俺の目の前に出すなとあれほど言ったのに──」
「あはははは! それで食べて差し上げたんですね! 陛下ったらお優しいなぁ〜」

[Fin]
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