亡国の聖女は氷帝に溺愛される
繋がれた手
「──セントローズ公爵に何を言われていたんだ?」
ルーチェは息を吐きながら、アゼフが去った方角に背を向けた。
「大したことではありません」
「大したことしか言わないぞ。あのオッサンは」
アスランはルーチェに話す気がないことを察したのか、後ろで控えていたセルカに目線を送った。セルカもルーチェ同様に何も言う気がないのか、黙って前を見ている。
「まぁ、言いたくないなら構わないが」
ルーチェは小さく喉を鳴らしてから応えた。
「そういうわけではないのです」
「どういうわけなんだ? ジルには黙っててやるから、話してみろ」
ルーチェは周囲に人がいないか、ぐるりと見回した。その姿を見て、アスランは「こっちに来い」と手招きをすると、近くにある部屋の扉を開けた。
中に入り、扉が閉まったのを確認してから、ルーチェは口を開く。
「セントローズ公爵様からは、ヴィルジールさまの話を一方的に聞かされていました。あまりよくない言い方で…」
「あのオッサンはジルを恨んでるからな」
「では、公爵様が言っていたことは事実なのですか?」
アスランは壁に預けていた背をぐいっと戻し、前のめりになってルーチェの顔を覗き込んだ。
「公爵は何と言ったんだ?」
「……ヴィルジールさまが、公爵様のご家族を…と。王族を皆殺しにして、玉座についたとも」
そう言い終えた時にはもう、ルーチェの顔色は暗いものになっていた。
これから城下の花市を見に行くところだったのに、と。自分が誘ったばかりに、アゼフとルーチェを引き合わせてしまったセルカは、悲しげに瞳を揺らしている。
アスランは腕を組んで重いため息を吐いた。
「それで? その話を信じたのか?」
ルーチェは俯いた。どうしたら良いのか分からないからだ。
「それ以前に、どうして私にその話をしたのかが分からないのです。私はヴィルジールさまのお妃候補でもなければ、貴族の娘でもありません」
「……それは、あれだな。ジルにもお前にもその気がなくても、実際お前は救国の聖女のような立ち位置で、王宮に居てもらっている。だから面白くなかったんじゃないか。次期皇后候補だった娘と孫を喪った公爵からしたら」
ルーチェは顔を上げて、アスランの顔をまじまじと見た。
アスランは思っていることがすぐに顔に出る、正直な人だ。今の表情から察するに、公爵がルーチェに向けて言った言葉は嘘ではないのだろう。
「……本当に、娘さんやお孫さんは、ヴィルジールさまに?」
ルーチェが恐る恐る尋ねると、アスランはふっと息をついてから答えた。
「事実であることは確かだ」
その日の夜、ヴィルジールから夕食の誘いがあったが、ルーチェは体調不良を理由に断った。実際はどこも悪くしていないが、今彼の顔を見たらアゼフのことを思い出してしまいそうだったからだ。
(理由があったとしても、本人のいないところであんな風に言うなんて…)
家族を喪ったアゼフの気持ちは分からない。だからと言って、ルーチェが知らなかったヴィルジールのことを──それも人に聞かせるような内容でない話を、愉しそうに語ってきたアゼフに、同情心は湧かなかった。
寧ろ、嫌な気分にさせられたものだ。
(──ヴィルジールさまは)
ルーチェはベッドの上の枕に突っ伏した。
娘と孫をヴィルジールに殺された、とアゼフは言っていた。それが事実であることは、ヴィルジールの幼馴染であるアスランが言っていたから、本当のことで間違いないだろう。
ルーチェの知るヴィルジールと、ルーチェが知らないヴィルジール。知りたいと思うけれども、知ってしまったら何かが変わってしまうような気もして。
(ヴィルジールさまは、どうして皇帝になろうと思ったのかしら)
ルーチェはもぞりと体の向きを変え、夜空にぼんやりと浮かんでいる月へと目を動かした。
白銀色の月は淡く輝きながら、夜を照らしていた。
来たるマーズへの出立の日は、どんよりとした曇り空が広がっていた。
見送りにきたエヴァンは雨が降らないか心配しているのか、憂げに空を見上げている。その前を往復しているのはアスランとセルカで、馬車に荷物を運び入れるためにきびきびと動いていた。
ルーチェは元ソレイユ宮の使用人であったイデルに支度を手伝ってもらってから、待ち合わせ場所である裏門に到着した。いち早く気づいたエヴァンに会釈をすると、隣いるヴィルジールがルーチェを振り返り、早足で歩み寄ってくる。
「体調はもういいのか」
ルーチェは唇を横に引きながら頷いた。
「昨日は申し訳ありませんでした。その…おやつを食べ過ぎてしまい」
取ってつけたような言い訳だったが、ヴィルジールは疑う素振りも見せずに、ただ「そうか」と返してきた。
ヴィルジールの視線がルーチェから外れ、馬車へと向けられる。
用意されている馬車は二台。一台目にはヴィルジールとルーチェが、二台目には旅の荷物と付き添いで行くセルカとヴィルジールの従者であるルシアンが乗るそうだ。
護衛として騎士であるアスランとその部下たちが同行するそうだが、彼らは自分たちの馬に乗って行くという。