亡国の聖女は氷帝に溺愛される

マーズの夜


『──ねぇ、ファルシさま。セイジョって、どうして必要なの?』

 青々と茂る緑の下で、ふたりの子供が肩を並べて座っている。木の枝を手に、細い水路を流るる水を弄るフィオナは、大きな菫色の瞳を隣にいる少年──ファルシへと動かした。

 ファルシは空を覆い隠さん勢いで広がる木々を見つめていたが、すぐにフィオナと目を合わせた。

『国を守るため、かな』

『どうして国を守らなければならないの?』

『それが私たちの責務だから』

『セキムって?』

 ファルシさまは難しい言葉ばかり使うんだから、とフィオナが頬を膨らませる。同じ年頃なのに、いくつも離れているのではないかと疑いたくなるほどに、ファルシは大人びていた。

『果たさなければならないことだよ。聖王である私と、聖女である貴女には、この国のためにやり遂げなければならないことがあるんだ』

『それってなにをするの?』

 小首を傾げるフィオナに、ファルシは何も返せなかった。

 美しい顔に作り笑いを飾り、フィオナの黄金色の髪をそっと撫でる。

『それは──来たる日まで、口にしてはならないんだ。掟を破ると、大いなる闇が国に災いを起こすと謂われているから』

 それはなあに、と問うたフィオナに、ファルシはまた何も返せなかった。

 ──大いなる闇を鎮めるために聖女は在り、世に光を齎すために聖王は在る。

 これは、神官たちがよく口にしていた言葉だ。呪文のように繰り返しては、フィオナの意識に深く刻みつけようとしていた。

 神官たちはいつも白い衣服を着て、ヴェールで顔を覆っていた。彼らは聖王と聖女を神殿に留め置き、やがて訪れる“来たる日”のためだけに生きているようだった。

 そんな彼らのことを、フィオナは恐ろしく感じていた。

 神官に恐れを抱いたフィオナのことを、彼らは“人里で育った所為だ”と理由をつけ、聖女であることを自覚させるために鞭を手に取った。

 だが、聖王がそれを止めた。

 ──私に考えがある。聖王は聖女を庇いながらそう告げると、南にある国へ伝書を送った。それは永らく門を閉ざしていた神殿にとって、初の試みとも言えた。

 聖王ファルシの手によって、開かれた門の向こうからは──フィオナよりもいくつか年下の少年がひとり現れた。

 少年の名はノエル。精霊を愛し、精霊に愛されていたノエルは、人の力ではできない不思議なことを行う術を持った、魔法使いだった。

 ファルシはノエルとフィオナを引き合わせ、魔法の使い方を指南するよう頼んだ。

 ノエルは二つ返事で引き受けた。その裏に隠されていたものに、気づいていながら。



「──ルーチェ様ッ!!」

「──陛下っ!!!」

 ルーチェとヴィルジールがセルカとルシアン、アスランら騎士一行と再会を果たしたのは、雨が降り止んだ後だった。

 ふたりの元へ案内をしたのはルーチェの聖獣だったようで、先頭には聖獣が、その背後には馬に跨るセルカとルシアンが、その後方には御者の隣で白目を剥いているアスランの姿があった。

「一体何があったのですか!?」

 ルシアンは火を起こし、セルカはルーチェの身体をタオルで拭っていく。騎士たちは気を失っているアスランを除いて、周囲を警戒するために散らばった。

「さあな。馬車に雷が落ちて、俺とルーチェだけを落としたようだが」

「そんなことがあるのですか?」

「…現に起きただろう。あれが雷なのか、魔法の類なのかは分からないが」

 ヴィルジールは落ちた馬車を見遣った。
 不思議なことに、あの落雷を受けたのは馬車だけで、繋がれていた馬は四頭とも無傷だった。そのうちの一頭はヴィルジールの愛馬だったらしく、彼に鬣を撫でられている馬は鼻を擦り寄らせている。

 ヴィルジールが愛馬へ向ける眼差しはとても柔らかく、側から眺めていたルーチェの胸を温かくさせた。

 ルーチェとヴィルジールは順に馬車の中で衣服を着替えた。ルーチェは菫色のドレスワンピースに、ヴィルジールはオフホワイトのシャツと青色のベストに。

 だがヴィルジールは馬車から出てきたルーチェを見た途端に、ベストを菫色のものに替え、白いジャケットを羽織った。

 きっと、気付いていたのだろう。お揃いのデザインで仕立てられたアウターが、雨のせいで着られなくなってしまったことで、ルーチェが気を落としていたことに。

「ヴィルジールさま」

「何だ」

 ふわりと笑ったルーチェに、ヴィルジールはいつものように淡々と返していたが、その声音は長年仕えているルシアンを驚かせるくらいに柔らかかった。


 ぱちぱちと燃える火を調節するふりをしながら、ルシアンが密やかな声でセルカを呼ぶ。

「──何でしょうか。ルシアン殿」

「セルカさん、あれ、どう思います?」

「あれとは?」

 ルシアンはくいくい、とセルカの袖を引き、目線の先を見るよう促す。ルシアンの緑色の瞳に映っているのは、仲睦まじげに顔を見合わせているルーチェとヴィルジールの姿だ。
 セルカは何度か瞬きをしてから、顔を綻ばせた。

「何かあったのだろうとは思いますが」

「ですよね! やっぱり春が来たんだろうなぁ」

「今は秋では?」

 真面目な顔つきでいるセルカに、ルシアンは苦笑で返した。
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