亡国の聖女は氷帝に溺愛される

聖王の行方


 ──イージスの聖女は、来たる日のために生まれてくる。

 そのためだけに、この世に生を受けたのだとしたら。その日が終わったら、聖女はどこへ行くのだろうか。

 答えは明白だった。自分と同じ存在に会ったことがなければ、見たこともないからだ。

 聖女は“来たる日”を迎えたら、命を落とす。恐らくそれは、何十年、何百年と続き、誰ひとりとして変えられなかった聖女の宿命なのだろう。

 だけど、ひとりだけ。聖女のために抗った者がいた。

(──あの日、私は。ファルシ様を止めることができなかった)

 銀色の翼が空を舞う。羽ばたくたびに、小さな光の粒子がきらきらと散っていた。

 翼は初めからルーチェと共に在ったかのように、ルーチェの背中で大きな翼を広げながら翔んでいる。

 ルーチェは小さくなったマーズの城を一瞥してから、北の方角を向いた。

 ルーチェだけにしか見えない細い光が、北へと続いている。その光は初めはとても弱々しく、意識を凝らさなければ感じられないくらいに小さかったが、マーズの地に足を踏み入れてから突然強くなっていった。

 呼んでいるのだと、ただ漠然と、そう感じた。だからルーチェは、人々が寝静まった頃に聖獣を喚び出したのだ。

「──私をファルシ様の元に連れて行って」

 ルーチェの聖獣は、主人の願いに応えるように翼を広げ、ルーチェを空へと連れて行った。

 聖獣の名は、イクシオ。竜の業火からルーチェを守った時に身体の殆どを失ってしまったが、かつては銀色の翼と水晶のような瞳を持つ、天馬のような姿をしていた。


 ルーチェは空を翔けながら、胸元のペンダントにそっと触れた。

 ヴィルジールから贈られた青い宝石のペンダントが、月の光を受けて煌めいている。空よりも深く、海よりも淡いその色は、ヴィルジールの瞳と同じ色で。
 見つめているだけで、倖せな気持ちにさせてくれる。

 何も言わずに出てきたというのに、彼からもらったペンダントを着けてきてしまった。こんな真夜中にひっそりと抜け出したことが彼に知られたら、きっと怒られるに違いない。

 けれど、そんな日は来ないだろう。
 マーズの星空を共に眺めながら、手を繋いだあの瞬間がさいごなのだ。

 そうしたら、きっと、ルーチェはもう──。 

「(───フィオナ)」

 ファルシの声が頭の中に響く。ルーチェの知るファルシは、何が起きようとも声音ひとつ変えずにいられるような、冷静な人だったというのに。 

 焦りを感じる声に、ルーチェは羽ばたきの速度を上げさせた。

「(───フィオナ。こちらに来てはだめだ)」

 道の先から光が伸びてくる。濃く輝く純白の光が、ルーチェを招くように色を広げているというのに、ファルシは来てはいけないと言っている。

(──待っていてください、ファルシ様) 

 ルーチェは意識を凝らし、光が指し示す方角へ進み続けた。



「───恐らく聖女は、あの竜の元へ向かったんだと思う」

 月明かりを頼りに、真夜中の森を馬で突っ切る。まともな人間の考えることではないが、夜明けを待つことはできなかった。
 馬の手綱を握るヴィルジールの手に、冷気が纏わりつく。

「竜の元へ行って何をする気だ」

「竜をどうこうというより、聖王様を救けに行ったんだと思う」

「聖王を? 聖王は竜といるのか?」

 ノエルは自分を背に乗せているフェニックスの羽に触れ、それから頭を撫でた。

「僕が最期に視たものは、聖王様が竜に剣を突き立て、そして竜が巨大な炎を吐いているところだった。一夜で国は滅んだけど、聖女は生きていた。となると、聖王様は捕らわれているんだと思う。竜の中に」

「竜の中に?」

「呑み込まれたって言えばいいかな。竜は己の一部にしたつもりなんだろうけど、聖王様は何らかの方法で生き延びていたんだと思う」

 ヴィルジールは切れ長の目を細めた。
 ルーチェが生きているならば、聖王もどこかで生きているとは思っていた。ルーチェのように、何らかの原因で力を失い、行き倒れているのではないかとも。
 だが、ノエルの推測には心当たりがある。

 オヴリヴィオ帝国の城下を、黄金の竜が襲撃したあの日。
 ヴィルジールがルーチェの光で命を救われた、あの時。竜はヴィルジールを前に、こう言っていた。

 ──奴には劣るが、中々の力だ。
 ──俺を誰と比較している。
 ──我が喰らってやった、愚かな男のことよ。

 竜が喰らったという男のことは、やはり聖王ファルシで。
 ヴィルジールはファルシに劣ると馬鹿にされたのだ。

「竜の中にいる聖王を、どうやって引き摺り出すんだ?」

「それは分からない。けど、ひとつだけ思い当たることがある」

 ヒュルル、とフェニックスが急に鳴き声を上げ、先に進むのを止めた。ヴィルジールは慌てて手綱を引いて、ノエルを振り返る。

「急に止まるな、魔法使い」

「僕に言わないでよ。フェニックスが急に鳴いて──」

 ヨシヨシ、とノエルがフェニックスの体を撫でる。
 ヴィルジールは呆れたように溜め息を吐いてから、夜更けの空を振り仰いだ。

 マーズの城を出てから、どれくらい馬を走らせただろうか。

 雲が出てきたせいか、ルーチェと共に見た星々は疎に散って見え、月は姿を隠してしまっている。

「ねぇ、氷帝」
「なんだ」
「あれ、見て」

 ノエルが遠くを指差す。その人差し指は微かに震え、北の方角を向いていた。その指が指し示す方を見つめていると、続々と火の手が上がっているのが見える。
 ヴィルジールは静かに表情を消した。



「──宰相様ッ!! 大変です!」

 凄まじい勢いでドアが何度も叩かれている。夢の中に片足を突っ込んでいたエヴァンは、大きな欠伸をしながらベッドを出た。

 皇帝がマーズへ出立してから八日目。皇帝代理として首都に戻ってきているセシルと共に政務を執り行って、定時には帰宅し、睡眠時間をたっぷりと確保する生活にはもう慣れた。

 だが、そう思う一方で寂しさも感じていた。

「──はいはい。こんな夜更けに何事でしょうか」

 ドアを開けると、そこには騎士が膝をついていた。剣帯の色を見ると、騎士は夜間の警備担当のようだ。

「──申し上げます! 城下に火の手が上がりましたッ!」

「──はいはい、火の手ね。………え、火の手!?」

 眠気が一瞬で吹き飛ぶどころか、心臓が飛び出そうな報告に、エヴァンは両手で頭を押さえた。

「城下に火の手って何です?! 私の睡眠を妨げるほどの火事!? そ、それとも、どこかが攻めてきましたか!?」

 エヴァンは大慌てで着替え、ホールへと向かって駆け出した。後ろを走る騎士が、震える声で「分かりません」と叫ぶ。

 ホールに到着すると、セシルがエヴァンの姿を見るなり手を上げた。その傍には騎士団長──アスランの父親が険しい顔で立っている。

「──エヴァン殿!!」

「一体何事ですか!?」

 セシルは肩で息をしているエヴァンの腕に手を添えると、ぐにゃりと顔を歪めた。

「エヴァン殿は、以前城下を襲った竜のことをご存知ですよね?」

「直接見たわけではありませんが。あの時は陛下が大怪我を…」

 まさか、とエヴァンは顔を跳ね上げる。

「そのまさかです。竜が現れ、各地を飛び回りながら炎を吐き散らしています」

 セシルは蒼白な顔で言い切り、空の玉座を見る。
 今はそこに、ヴィルジールはいない。
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