亡国の聖女は氷帝に溺愛される
最終話
オヴリヴィオ帝国、首都ソルビスタ。この象徴とも云える皇城から、美しい鐘の音が鳴り響く。
鐘を鳴らしたのは宰相であるエヴァンだ。
「──春の陽気ですね。陛下」
エヴァンが振り返った先には、青色のマントをはためかせているヴィルジールの姿がある。いつになく華やかな礼服を身に纏うヴィルジールは、宙を舞う春の花を眺めていた。
「春は好きじゃない。暖かくて眠くなる」
「そうですか? ぽかぽかして気持ちがいいではありませんか。ね? ルーチェ様」
エヴァンに呼ばれて、ルーチェが振り返る。
ヴィルジールと同じ色合いのドレスを着ているルーチェの頭には、青い宝石が煌めくティアラが載せられている。
ルーチェは花開くように笑うと、ヴィルジールに右手を差し出した。
「行きましょう、ヴィルジールさま。ノエルとファルシ様を見送りに行かなければ」
「見送ったところで、あの魔法使いはいつでもどこでも現れるだろう」
「そういう問題ではありません。また会う日まで元気でね、と別れの挨拶をすることに意味があるのです」
ヴィルジールは呆れたように溜め息を吐きながらも、ルーチェの右手を取った。
あの襲撃の夜から十日。竜の急襲によりオヴリヴィオ帝国の首都では多くの怪我人が出て、城の一部も倒壊するという惨事に見舞われた。
かつてイージス神聖王国を滅ぼした竜の爆炎から人々を救ったのは、亡国の聖女とこの国の皇帝であるヴィルジールだ。
城門に向かうと、そこには艶やかな翼を毛繕いしているフェニックスと、契約主であるノエル、そしてファルシの姿があった。
ルーチェの訪れに一番に気づいたのはノエルで、嬉しそうな顔をしながら手を振っている。
「──聖女、氷帝。見送りに来てくれたの?」
「そんなところだ」
ルーチェは隣にいるヴィルジールの顔を見上げた。ついさっきまで見送りを渋っていたというのに、悠然とした表情でノエルたちを見ている。
「ヴィルジールさま」
「何だ」
「何だ、ではありません。さっきと違うではありませんか」
「何のことだ?」
ふ、と。ヴィルジールの口の端に笑みが滲む。
ルーチェは呆れ混じりな溜め息をひとつ吐いてから、ノエルとファルシに向き直った。
「ノエル、体に気をつけてね。いつでも遊びにきてね」
「ありがと。呼んでくれればいつでも行くよ」
「ファルシ様も、どうかお元気で」
泣きそうな顔で言ったルーチェの頬に、ファルシの手が添えられる。
「そんな顔をしないでくれ、今生の別れではないのだから。君たちの結婚式には顔を出せるようにするよ」
ファルシは春の花のように淡く微笑むと、ルーチェの額にそっと口づけを落とした。別れを惜しむように見つめ合っていると、ルーチェの手を握る力が強くなる。手を辿った先では、ヴィルジールが不機嫌な顔をしていた。
「ヴィルジールさま。何をするのですか」
「何もしていないが」
そう言いながらも、ヴィルジールの手が伸びてくる。何をされるのかと思っていると、ハンカチで額を拭われた。
「……ヴィルジール様。相手はファルシ様ではありませんか」
「だから何だ。相手が誰であろうと、お前に触れていいのは俺だけだ」
「なっ……!」
顔を赤らめたルーチェの声は震えていた。泣き虫なルーチェの両目は潤み、優しい表情をしているヴィルジールの顔が近づくと、涙の膜は一層分厚くなる。
「まさか憶えていないのか?」
「な、い、いつのことですか…!」
「つい十日前の話だ。忘れているなら、もう一度言うが」
ルーチェは「あわわわ」と慌てふためいた声を出しながら、ヴィルジールの口を両手で押さえた。
つい先日マーズから帰還したセルカとアスラン、ルシアンが微笑ましそうな目でこちらを見ている。
ルーチェは顔を真っ赤に染め上げながら、ヴィルジールの手を取って駆け出した。
「おい、ルーチェ──」
ルーチェは子供のように駆けながら、ヴィルジールの手を握る左手に力を込めた。こうして触れているだけで伝わる想いがあると、ふたりは知っているから。