亡国の聖女は氷帝に溺愛される

閑話「初めての舞踏会」

 事の始まりは、一通の招待状だった。 

「──舞踏会、ですか?」

 緩やかな風が、秋の花々を優しく揺らしている。庭園の片隅で花を愛でていたルーチェは、セルカの手にある白い封筒と彼女の顔を交互に見てから、こてんと首を傾けた。

「ええ。ルーチェ様宛に届いております」

「その舞踏会とはどのようなものなのでしょうか? 差出人はどちら様ですか?」

 ルーチェは舞踏会というものが分からない。差出人を聞いたところで、エヴァンの生家であるセネリオ伯爵家とアスランの生家であるデューク侯爵家くらいしか知らないが、招待状の送り主の名を訊かずにはいられなかった。

 一体誰が、居候同然で世話になっているだけの自分を招待したのだろうか、と。

 セルカが封筒の裏面を見て、少しだけ目を見張る。

「差出人は、エフゲニー侯爵家からですね」

「エフゲニー侯爵家…」

 またしても首を傾げるルーチェに、白い封筒が差し出される。手渡されたペーパーナイフで封を切り、中に入っていた紙を取り出すと、それには流麗な字で挨拶の文と日付が記されていた。

「舞踏会、ですか…」

 招待文に目を落としているルーチェの声が小さくなる。

「では不参加とお返事いたしましょうか?」
「いいえ」

 ルーチェはすっくと立ち上がる。

「私、舞踏会に行ってみたいです。……セルカさん、手伝って頂けますか?」

 ルーチェの花開くような表情に、セルカは笑って応えた。

 それからルーチェはヴィルジールの執務室を訪れた。彼の厚意で城に置いてもらっている以上、この国の王侯貴族が関わる場に無断で参加するわけにはいかないと思ったからだ。

 許可を取ってから入室すると、中にはエヴァンの姿もあった。相変わらず書類の山に埋もれている。

「──舞踏会、ですか」

 ルーチェは二人に招待状を見せながら、参加してみたい旨を伝える。エヴァンはにっこりと笑ったが、ヴィルジールは難しい顔をしていた。

「良いではありませんか。エフゲニー侯爵家は穏健派で、当主も夫人も穏やかで優しい方です。きっと楽しめると思いますよ」

「でしたら、参加してもよろしいでしょうか?」

 エヴァンとルーチェの視線がヴィルジールへと向けられる。

 ヴィルジールは招待状から顔を上げると、眉間に皺を寄せながら溜め息を吐いた。

「……参加するのは構わないが、踊れるのか?」

「いいえ」

 即答したルーチェに、ヴィルジールが軽く目を見張る。

「踊れないのに、舞踏会に参加したいのか? 舞踏会が何をする場所なのかは分かっているのか?」

「それは……何となく足を動かしていれば、それっぽく見えませんか?」

 ルーチェはその場でふわりと回転しながら、ステップっぽいものを踏んでみる。だがくるりと回った時には、エヴァンはお腹を抱えながら笑い、ヴィルジールは見たこともないくらい目を見開いていた。
 
「あははははっ、ルーチェ様っ…それ、それはっ…」

 ルーチェはぷうと頬を膨らませる。

「エヴァン様。何も笑わなくては良いではありませんか」

「だ、だって…、いくらなんでも…あはははっ」

 エヴァンは目に涙を浮かべながら笑い転げている。

 ルーチェは助けを求めるようにヴィルジールに目を向けた。

「ヴィルジール様」

「なんだ」

「今の、どう思われましたか?」

「どう、とは?」

 ルーチェは膨れっ面で「今のステップです」と告げる。

「……今のはステップだったのか」

 ヴィルジールはふ、と小さな笑みを零すと、濡れ羽色の椅子から立ち上がった。そしてルーチェの目の前まで歩み寄ると、右手をルーチェの腰に添え、左手はルーチェの右手を取ると、片足を少し後ろに引く。

「踊ってみろ」

「お、踊れません…!」

「踊れないなら参加はやめた方がいい。舞踏会は踊る場なのだから」

 むむ、とルーチェは唇を窄めると、足元に視線を落としてそれとなく動いてみた。だが、タイミングを合わせるようにして動き出したヴィルジールの足と、動きがまるで噛み合わない。

「…建国祭の時は自然と踊れていましたのに」

 ルーチェの呟きに、ヴィルジールは意地悪げに目を伏せる。

 二人の噛み合わないステップを眺めていたエヴァンは、和やかな気持ちで笑った。

(──ルーチェ様。貴女が踊れていたのは、陛下が完璧なリードをされていたからですよ)

 その後ルーチェは、絶対に踊れるようになってみせるとヴィルジールに宣言し、執務室を出て行った。
 

 舞踏会の日まで残り七日。
 あれからルーチェは、毎日のように社交ダンスの練習をしていた。

 練習相手を引き受けてくれたのは、侯爵家の令息であるレオンという青年だ。なんとあのアスランの弟であるという。

 背格好から、ルーチェの練習相手にぴったりだとエヴァンが連れてきてくれたのだが──。

「そうそう、そこでターンを…って、おい」

「す、すみません…」

「何回僕の足を踏むんだよ!」

 レオンはアスランに似て思ったことがすぐに顔に出る正直な人のようで、ルーチェが彼の足を踏むたびにガミガミと怒るのだった。

(うう、ダンスって難しいわ…)

 ルーチェはシュンと肩を落としながら、セルカが教えてくれた基本的なステップをおさらいしてみた。これさえ出来れば舞踏会で一曲目に流れるワルツは踊れるそうだが、ルーチェにはそれすら難しそうだ。

 だが、諦めるわけにはいかない。本当に行くつもりなのかと、訝しげな顔をしていたヴィルジールを驚かせてやりたいのだ。

 ──そうしたら、きっと。今度は胸を張って、彼を誘うことができるだろうから。



 来たる舞踏会当日。
 夕暮れ前に支度を始めたルーチェとセルカの元に、海色のドレスが届けられた。差出人は不明だが、髪飾りにイヤリング、ネックレスに靴と一式用意してルーチェに贈る人など、この世に一人しかいない。

 ルーチェの瞳の色に合わせ、菫色のドレスを用意してくれていたセルカは、白い箱に詰められている海色のドレスを見てほうっと息を吐いていた。

「──全く、陛下という方は。用意されるなら私に一声かけて頂きたいものです。驚かせたくて贈ったのでしょうが、こちらにも準備というものがありますのに」

 セルカが箱からドレスを出し、専用のフックに掛ける。見事な海色のそのドレスは、腰からふわりと膨らみのあるデザインで、裾には小粒な透明の宝石が星のように散りばめられていた。

「セルカさん、まだヴィルジールさまからだと決まったわけでは…」

「決まっております。この国で青色のドレスを女性に贈れる方は、一人しかおりませんので」

 セルカは呆れたように笑っていたが、届いた衣装を箱から全て出すと、服の袖を捲った。

「さあ、ルーチェ様。今日は私が最高に美しくしてみせましょう」

「よろしくお願いします…?」

 ルーチェは化粧台の前に座り、鏡に映る自分の姿を眺めた。セルカにおめかしをしてもらうと、お姫様のような気分になれるから不思議だ。今夜はどんな魔法をかけてくれるのだろうか。


 舞踏会の会場であるエフゲニー侯爵の別邸までは、城から馬車で二十分程の距離だった。

 オヴリヴィオ帝国の城の正門を出て緩やかな坂を下ると、通称城下町と呼ばれている広場がある。そこを抜けると、貴族たちの別邸が並ぶ大きな通りに出るのだが、その中でも特に目立つのがセントローズ公爵の別邸だ。

 エヴァン曰く、帝国の序列一位の貴族だからだとか。

「──着いたぞ。エフゲニー侯爵家の別邸だ」

 馬車が停まると、護衛兼エスコート役として来たアスランが扉を開け、手を差し出してきた。相も変わらず不服そうな顔をしているところは、ルーチェにダンスを教えてくれたレオンとよく似ている。流石は兄弟だ。

 馬車を降りると、秋の花たちがルーチェを出迎えた。橙に黄、薄桃など優しい色合いの花ばかりで、それらは各所に散りばめられている小さなランプの光にライトアップされており、花が好きなルーチェの心を躍らせた。

「──ようこそおいでくださいました。聖女ルーチェ様」

 会場入りをすると、主催者である侯爵とその奥方である夫人がルーチェを出迎えた。彼らはエヴァンから聞いていた通り、穏やかで優しく、温かい人たちだった。

 入れ替わるように挨拶をしてくる人たちも、穏やかな人ばかりだったのは、穏健派という派閥に属しているからだろうか。貴族でないルーチェにはよく分からなかった。

 ダンスが始まるのか、手を取り合う男女の姿が多く見られるようになった頃。一人の男性が、ルーチェの前に現れた。

「──そこの美しい御方。貴女のお名前は?」

 ルーチェに声を掛けたのは、紫色の髪と瞳を持つ男性だった。年齢はルーチェよりも少し上だろうか。品のある佇まいから、上位の貴族であることが見て取れる。

「ルーチェと、申します」

「ルーチェ様。素敵な名前ですね。その名の通り、光のように眩く美しい美貌の持ち主だ」

 男性がルーチェの手を取り、手の甲に軽く唇を当てる。

 挨拶の口づけをされたのだと気づいた時にはもう、手を差し出されていた。

「ルーチェ様。一曲目は私と踊って頂けませんか?」

 ルーチェは背後にいるであろうアスランを振り返った。だがアスランは背後どころか壁に背を預け、グラスを手にこちらを眺めているだけで。

 どうしたものかと助けを求めるように視線を送ったが、好きにしろと言わんばかりに手を振られてしまった。

 仕方なく前を向くと、男性の紫色の瞳と目が合う。

「……もしやあのアスラン・デュークのパートナーでしたか?」

「い、いいえ! アスランさんは、その…護衛も兼ねて来てくださったのです」

「ほう、あの皇帝の懐刀であるデューク卿が。…まあ彼が何故貴女の護衛をされていたのかは分かりませんが、今この瞬間のパートナーは私です。さあ、御手を」

 ルーチェはごくりと唾を飲み干してから、男性の手に自分の手を重ねた。

 いよいよ練習の成果が試される時が来た。彼に導かれるようにして、ホールの中央に向けて足を動かす。目の先には見つめ合う男女の姿が何組もおり、後方にいる楽団は楽器を構えている。

 その時だった。
 周囲にいた招待客が、一斉に囁き出したのは。

「ねえ、あの方……本物かしら?」
「本物も何も、見間違えるはずがないだろう…!あんなにも美しい方を!」
「でも、どうしてここに? こういった場には一切顔を出されなかったのに……」

 一体何事かと、ルーチェは辺りを見回す。すると、ルーチェの前方に居る人たちが、まるで道を開けるように次々と左右に分かれていった。

 そして、現れたのは──ここにいるはずのない人で。

「……ヴィルジールさま?」

 ルーチェはぱちぱちと目を瞬かせながら、ドレスの裾を摘んで駆け寄った。

 ヴィルジールはルーチェを上から下まで眺めると、ほんの少しだけ表情を和らげた。

「…思いの外仕事が早く終わったから、練習の成果を見に来てやった」

「そ、それは…転ぶわけにはいきませんね」

 ルーチェはくすくすと笑って、その場で一礼してから去ろうとしたのだが、下がろうとしたルーチェの手をヴィルジールが掴んだ。

「ヴィ、ヴィルジールさま…?」

 ヴィルジールは何も言わずに、ルーチェのことを見下ろしている。

「あの、ヴィルジールさま。ダンスが始まってしまいますよ?」

「そうか」

「そうかって…」

 だからどうしたと言わんばかりに淡々と返してきたヴィルジールは、ルーチェの手を掴んだまま動かない。どうしたものかと困っていると、ルーチェをパートナーに誘ってくれた男性がヴィルジールとの間に割って入るようにして来た。

「ご機嫌麗しゅう、偉大なる帝国の皇帝陛下」

「……お前は?」

「アレクス・ロンダートにございます。ところで陛下、ルーチェ様はこれから私と踊られるのですが」

 アレクスは困惑した表情でヴィルジールを、それからルーチェを見遣ると、おずおずとルーチェに手を差し出す。戻りましょう、とでも言うかのように。

 しかし、ルーチェはその手を取れなかった。

 何故なら、ヴィルジールが跪いて、そしてルーチェの右の手の甲に口づけを落としたからだ。

「っ…………?!」

「踊ってくれるか?」

 いつもよりずっと柔らかい表情をしているヴィルジールが、ルーチェに誘いの手を差し伸べている。他の誰が見ても、笑みとは分からないだろうささやかな表情を浮かべながら。

「練習したとはいえ、とっても下手ですよ?」

「下手くそでもそれらしく見えるドレスを選んだのだが」

「あ、足を踏んでしまうかもしれません…!」

「避けるから問題ない」

「転ぶかもしれませんよ…!?」

「そうなる前に受け止めてやる」

 ヴィルジールが小首を傾げるようにして、顔を寄せてくる。

 柔らかい吐息と共に、耳の中に淡い声が落とされた。

「安心して身を預けろ」

 ルーチェは顔を赤らめながら頷き、ヴィルジールの手に指を絡めた。

[fin]

 
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