蜜味センチメンタル
過去に飲まれる
・†・゚゚
時計の針が、日付をまたいで午前1時を回っていた。
紫水家の本邸。
重厚な柱と廊下のきしみすら静まり返った夜の屋敷の中で、那色は自室の書斎スペースに向かっていた。
スーツのまま上着だけを脱ぎ、デスクには開きっぱなしの資料が山積みになっている。
そのほとんどが式典関連と、取締役への説明資料。
新人の仕事ではない内容ばかりだったが、いつの間にかそれを担うのが当然という空気ができていた。
——会社の“次の顔”として。
PCを操作する指先の動きが止まった瞬間、コンコン、とノックの音が響く。
「那色さん、遅くまでお仕事ですか?」
戸口から、年配の家政婦が顔をのぞかせた。
母の代から仕えている、旧くからのスタッフだ。
「お夜食をお持ちしましょうか? おにぎりでよければ、すぐにご用意できますよ」
「……ありがとうございます。お気持ちだけいただきます。もう遅いので、気にせず休んでください」
「かしこまりました。ではお言葉に甘えて、下がらせていただきますね」
柔らかく頭を下げて、家政婦は静かに去っていく。廊下の奥に響く足音が、しんとした夜の静けさをさらに引き立てていた。
ここに住んでいても、誰も本当の意味で“家族”ではない。そう思ってしまう自分がいる。
紫水の家は広すぎて、冷たくて、そしてよく整っている。けれどそこには人の笑い声や生活の音のような、誰かと暮らしている実感がどこにもなかった。
だからだろうか。
思い出すのは、あの狭いアパートのキッチンで羅華が笑っていた顔ばかりだった。
時計の針が、日付をまたいで午前1時を回っていた。
紫水家の本邸。
重厚な柱と廊下のきしみすら静まり返った夜の屋敷の中で、那色は自室の書斎スペースに向かっていた。
スーツのまま上着だけを脱ぎ、デスクには開きっぱなしの資料が山積みになっている。
そのほとんどが式典関連と、取締役への説明資料。
新人の仕事ではない内容ばかりだったが、いつの間にかそれを担うのが当然という空気ができていた。
——会社の“次の顔”として。
PCを操作する指先の動きが止まった瞬間、コンコン、とノックの音が響く。
「那色さん、遅くまでお仕事ですか?」
戸口から、年配の家政婦が顔をのぞかせた。
母の代から仕えている、旧くからのスタッフだ。
「お夜食をお持ちしましょうか? おにぎりでよければ、すぐにご用意できますよ」
「……ありがとうございます。お気持ちだけいただきます。もう遅いので、気にせず休んでください」
「かしこまりました。ではお言葉に甘えて、下がらせていただきますね」
柔らかく頭を下げて、家政婦は静かに去っていく。廊下の奥に響く足音が、しんとした夜の静けさをさらに引き立てていた。
ここに住んでいても、誰も本当の意味で“家族”ではない。そう思ってしまう自分がいる。
紫水の家は広すぎて、冷たくて、そしてよく整っている。けれどそこには人の笑い声や生活の音のような、誰かと暮らしている実感がどこにもなかった。
だからだろうか。
思い出すのは、あの狭いアパートのキッチンで羅華が笑っていた顔ばかりだった。