蜜味センチメンタル
優しさの余白

答えの出せない悩みに押しつぶされそうな時は、仕事に忙殺されている方が、ずっと気持ちが楽だった。

新CMの撮影当日、羅華が先輩の加藤と共に現場入りすると、スタジオ内はすでにセットの準備が進められていた。

撮影の準備をしているカメラマン、メイクスタッフ、照明担当者、音響スタッフ。その全員が忙しなく動き回っていた。

「原岸、現時点での状況把握頼むわ。俺はクライアントの迎えに行ってくる」

「分かりました」

加藤が背を向けて出ていくのを見届け、今回の依頼先の制作会社の責任者を見つけて声をかける。

羅華の役割は、クライアントと制作チームをつなぐ架け橋。クライアントの要求に応えつつ、撮影の流れをスムーズに進行させるため、瞬時に判断し、柔軟に対応する必要がある。

スタッフとの口頭確認で、現段階のスケジュールが順調に進行していると確認できた羅華は、頭の中で次の段取りを描きながら、手にしたタブレットに情報を入力する。

タブレットを片手に現場を一巡していると、戻ってきた加藤に呼び止められた。

「原岸。こちらがシスイ食品の蓮水(はすみ)さんだ」

加藤の隣には、一人の男が立っていた。

「先日はリモートでご挨拶させていただきましたが、直接お会いするのは初めてですね。メディア広報部の蓮水と申します」

「こちらこそ。株式会社レグナスの原岸です。今後は加藤の業務を全面的に引き継ぐことになりましたので、どうぞよろしくお願いします」

互いに名刺を差し出し、軽く頭を下げ合う。

蓮水は羅華より年上に見えた。神経質そうな切れ長の目が印象的で、理知的というよりは、どこか距離のある空気を纏っている。

——加藤さんなら自然に距離を詰められるんだろうけど、私でちゃんとやっていけるかな…

一瞬、そんな不安がよぎったが、すぐに意識の奥に押し込んだ。

「もうまもなくタレントの方が到着されるので、イメージの最終確認のために、簡単な打ち合わせを行います。蓮水さんもご同席いただけますか?」

「承知しました」

——プライベートがどうでも、仕事だけはちゃんとやらなきゃ

そう言い聞かせるように、羅華は背筋を伸ばした。


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