過保護な医者に心ごと救われて 〜夜を彷徨った私の鼓動が、あなたで満ちていく〜

冷めた視線の先で

「……俺、帰りますよ。」

白衣を脱いでロッカーに仕舞いながらそう告げると、後ろから遠慮のない手が肩をぱん、と叩いた。

「ダメダメ、たまには羽伸ばさなきゃ。な? 今夜は“社会勉強”だって思って、さ」

軽くて、軽率で、でもどこか人の懐に入り込むのがうまい、そんな声。
断りきれずに連れてこられたのは、煌びやかなビルの上階──

《Club Ceres》

看板を見上げて、ため息が漏れた。

「……キャバクラ、ですか。」

案内されるままに席へ着き、柔らかすぎるソファに身を沈める。
甘ったるい香水、シャンパンの気配、笑い声に音楽──
そのすべてが、神崎にとってはどこか“嘘っぽい”空間だった。

──こういう場、やっぱり苦手だ。

慣れない空気に身を硬くしていると、ホールの向こうでひときわ控えめな動きをする女性の姿が目に入った。

派手なドレスに身を包んではいるものの、彼女だけがどこか“静か”だ。

気になって目で追っていると、彼女はドリンクを受け取るふりをして、グラスに氷と水をどばどばと注いでいた。

──もはや、味がしないんじゃないか?と思うほどに。

客に見えない位置に入ってから、氷をすくってグラスに足す手つきも自然で、慣れている。

けれど──ふとした瞬間、彼女が物陰に身を潜め、壁に片手をついてそっと胸元に手を当てるのが見えた。

……呼吸を整えている?

笑顔を浮かべて戻ると、何事もなかったかのように別の席へ向かっていく。
その一連の動作に、妙な違和感が残った。

──具合でも悪いのか。

やがて、彼女が自分の卓に回ってきた。

「初回担当のナナです。何かお飲みになりますか?」

その声。
無理に明るくしているが、声帯の奥がわずかに震えているように感じた。

神崎は彼女の顔を見ず、ただ短く答えた。

「お茶。水。」

戸惑いの気配が漂ったが、すぐに彼女は作り笑いを貼り付けて返してきた。

「では……缶チューハイ、いただきますね。」

そう言って受け取った缶を、グラスに注ぎながら、彼女はさりげなく氷と炭酸水で薄めていた。
──またか。限界まで薄めて、まるで薬のように口をつける。

その仕草のどこかに、恐れにも似た慎重さがある。

「暇そうだな。」

無意識に、口が動いていた。

「えっ……いえ、そんなこと……ありません。」

彼女の瞳が揺れる。
その奥にある、何かを隠すような深い色。
強いはずなのに、どこか追い詰められているようにも見えた。

──この人の身体には、何かある。

直感だった。
自分は医師だ。
命の火が小さく揺れる瞬間を、これまで何度も見てきた。
それに似た、かすかな違和感を、このとき確かに感じ取っていた。

そしてその直感が、後に間違いではなかったことを、神崎は痛いほど思い知ることになる。

この夜が、彼の人生と彼女の運命を変える始まりになるとは、まだ知る由もなかった。
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