魔物の森の癒やし姫~役立たずスキル《ふわふわ》でちびっこ令嬢はモテモテです~

第29話 届かない力

 ざわり、とどこかで細い枝が震えた。
 重たく、湿って、冷たく肌にまとわりつく、得体の知れない圧迫感が辺りを包み込む。

 リュミは知らないうちに息を止めていた。心臓の音が、耳の奥で小さく鳴っている。
 全身の感覚が、目の前の気配に集中していくのがわかった。
 そして、次の瞬間。

「うう……う、う゛ぅ……」

 森の奥から、低く濁った声が聞こえた。
 それは、うめき声。けれど、人の声とも違うし、獣の鳴き声にも聞こえない。
 ただ喉を震わせるようにして漏れるその音には、苦しみと痛み、そして深くて抜け出せない絶望がにじんでいた。

 パッロの耳がぴくりと動いた。敏感な感覚が、森の異変を察知している。
 リュミの頭の上にいたリンコも、小さく震えながら身を竦める。

「……今の、なに?」

 ささやくような声が、リュミの髪を掠めて消える。
 ムスティが木の陰に目を凝らし、静かにつぶやく。

「……あれ、シカだ」

 その言葉を聞いた瞬間、リュミの体は勝手に動いていた。
 なにも考えずに、足が地面を蹴る。

 胸の奥に湧き上がるなにかが、彼女を突き動かす。
 草を掻き分け、ぬかるみに足を取られながら、リュミは必死に走る。
 泥の冷たさも、枝の痛みも、なにひとつ気にしていなかった。

 そして、目の前に見つけた。
 一頭のシカ。
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