旦那様は二人きりになると無口になるから仮初の夫婦なのかと思っていたけど、意外とそうでもなかった
閑話 執事の証言 その3
「嫌われていなかったようだ」
「それはようございましたね」
夕食を終えて寝支度を始めようかという頃合いに執務室を訪ねると、旦那様は嬉しそうに――いや、さほど表情は普段と変わらないが――そう言った。
昨日、奥様に嫌われたかもしれない、旦那様が悩んでいたので、様子を見るようお伝えしたのだ。
今日の昼間にその様子を見ていたのだが、嫌われていない、というよりは大して興味を持たれていない、というのが正しいとは思うが、それは黙っておいた。
いまの幸せそうな旦那様の雰囲気を壊す必要もあるまい。
旦那様の手には、奥様から先ほどもらった手袋がある。
それをじっと見つめては、かすかに口元を綻ばせ……そして、一気に気落ちしてしまったかのように――いや、さほど表情は普段と変わらないが――眉尻を下げてしまった。
「……嫌われてしまったかもしれない……」
「…………」
奥様が手袋を作っていたときに、これは何かと聞かれ、青銅器と答えたことを気に病んでいるのだろう。
たしかにその返答を聞いたときに、この男は何を言っているんだ、とは思った。
奥様もリズも一瞬きょとんとしていたし、リズに関しては旦那様を思い切り睨みつけていた。
しかし、旦那様はそこでは自身の失言に気づかず、手袋をもらったときにようやっと気づいたようだった。
奥様は気づいていなかったようだが、旦那様はかなり動揺していた。
少なくとも、手元が震えて服に紅茶のシミができる程度には。
「……どうしたらいいと思うか?」
「そうですねぇ……」
片手で優しく手袋を持ち、もう片方の手はぎゅっと拳を握りしめている。
それを見ながら、私は考えに耽った。
ここに来るまでの間にリズに聞いてみたが、奥様はそれに対しては特段何か気にしている素振りはなかったという。
嫌われていない、というよりは、興味を持たれていない、というのが正しいのだろう。
「そういえば、今度王妃殿下主催の夜会がありますね。先ほど招待状を受け取りました」
「ああ」
旦那様はこくりと頷く。
普段の旦那様であれば、騎士団の兼ね合いで参加をするかしないか直前まで決めかねていることが多い。
参加と言いながら休むのも、不参加と言いながら家にいるのも、どちらも失礼に値するからだ。それは主催の人たちもわかっているので、許容されている。
「そこで奥様の様子を見つつ、褒めまくるしかありませんね」
「褒めまくる、とは?」
「その言葉の通りです。奥様が旦那様を許すまで、奥様を褒めるのです」
「……なるほど」
進まない二人の関係性がこれで進むかどうかは知らないが、私が今の妻を怒らせたときはこうすることで突破口を切り開いていた。
とはいうものの、奥様はとくに気にされていなかった様子なので、そこについてはさほど気にする必要もないとは思うが、普段寡黙な旦那様が奥様を褒めることはそうないので、良いスパイスになるだろう。
「ただ、やたらと褒めるのはいけません」
「そうなのか?」
「ええ、もちろん。タイミングが悪い中で褒めても、女性の怒りは増えるのみです。しっかりと様子を見て、機会を見定める必要があります」
「……わかった」
短くそう言い、旦那様は手袋をぎゅっと見つめた。
「ルイーゼの予定が問題ないなら、今回は参加の返事をしておいてくれ。仕事のほうはトルネオと相談しておく」
「かしこまりました」
私は一礼し、部屋を辞した。
◆
「……おや?」
王妃殿下主催の夜会の日。
奥様がリズに目一杯おめかしされていて、そろそろ旦那様も準備ができただろうか、と部屋に向かおうとしていた矢先、旦那様がこちらに向かって走ってきた。
その身には、今日の夜会のための盛装ではなく、騎士団団長のための制服と剣をまとっていた。
「いかがされましたでしょうか、旦那様」
「すまない、トルネオから至急の救援要請が来た」
おそらく相当至急のことなのだろう。
普段であれば手紙のようなものが侯爵邸に届き、私のもとにそれが届いて旦那様にお伝えするという流れだが、伝書鳩などで直接旦那様のもとに行ったこととなる。
「それでは、本日はお休みされますか?」
「いや、しない」
そうハッキリと、旦那様は言い切った。
「さようでございますか」
「だから、悪いがルイーゼに言っておいてくれるか」
「……ふむ」
そこで少しばかり考え、私はかぶりを振る。
旦那様の目がかすかに見開かれるが、こればかりは賛同しかねた。
「こういうのは、直接言ったほうがよろしいのですよ」
手短に助言めいたことを言い、私は旦那様とともに奥様の部屋へ向かった。
『騎士団のほうから緊急要請が来たから行ってくる。必ず間に合わせるから、待っていてほしい』
『かしこまりました。ずっと待っていますから、怪我には気を付けてください』
奥様はまだまだ準備中ということだったので、面と向かってお話しすることは叶わなかったが、旦那様方は扉越しにしっかりと話すことができたようだ。
ここからは、私やリズの仕事の番だ。
奥様の用意が終わるなり、リズやメイドたち、使用人たちを一か所に集める。
「旦那様のお仕事の終わりは見えないから、どうなってもいいように動く。侍女たちは――」
旦那様がいつ戻ってこられてもいいよう、そして万が一遅くなったときでも、二人に一切の恥をかかせないよう、起こりうるすべてのことに準備をするのだ。
そうして私は方々に指示を出し、侍女や使用人たちは一斉に動き始めた。
「それはようございましたね」
夕食を終えて寝支度を始めようかという頃合いに執務室を訪ねると、旦那様は嬉しそうに――いや、さほど表情は普段と変わらないが――そう言った。
昨日、奥様に嫌われたかもしれない、旦那様が悩んでいたので、様子を見るようお伝えしたのだ。
今日の昼間にその様子を見ていたのだが、嫌われていない、というよりは大して興味を持たれていない、というのが正しいとは思うが、それは黙っておいた。
いまの幸せそうな旦那様の雰囲気を壊す必要もあるまい。
旦那様の手には、奥様から先ほどもらった手袋がある。
それをじっと見つめては、かすかに口元を綻ばせ……そして、一気に気落ちしてしまったかのように――いや、さほど表情は普段と変わらないが――眉尻を下げてしまった。
「……嫌われてしまったかもしれない……」
「…………」
奥様が手袋を作っていたときに、これは何かと聞かれ、青銅器と答えたことを気に病んでいるのだろう。
たしかにその返答を聞いたときに、この男は何を言っているんだ、とは思った。
奥様もリズも一瞬きょとんとしていたし、リズに関しては旦那様を思い切り睨みつけていた。
しかし、旦那様はそこでは自身の失言に気づかず、手袋をもらったときにようやっと気づいたようだった。
奥様は気づいていなかったようだが、旦那様はかなり動揺していた。
少なくとも、手元が震えて服に紅茶のシミができる程度には。
「……どうしたらいいと思うか?」
「そうですねぇ……」
片手で優しく手袋を持ち、もう片方の手はぎゅっと拳を握りしめている。
それを見ながら、私は考えに耽った。
ここに来るまでの間にリズに聞いてみたが、奥様はそれに対しては特段何か気にしている素振りはなかったという。
嫌われていない、というよりは、興味を持たれていない、というのが正しいのだろう。
「そういえば、今度王妃殿下主催の夜会がありますね。先ほど招待状を受け取りました」
「ああ」
旦那様はこくりと頷く。
普段の旦那様であれば、騎士団の兼ね合いで参加をするかしないか直前まで決めかねていることが多い。
参加と言いながら休むのも、不参加と言いながら家にいるのも、どちらも失礼に値するからだ。それは主催の人たちもわかっているので、許容されている。
「そこで奥様の様子を見つつ、褒めまくるしかありませんね」
「褒めまくる、とは?」
「その言葉の通りです。奥様が旦那様を許すまで、奥様を褒めるのです」
「……なるほど」
進まない二人の関係性がこれで進むかどうかは知らないが、私が今の妻を怒らせたときはこうすることで突破口を切り開いていた。
とはいうものの、奥様はとくに気にされていなかった様子なので、そこについてはさほど気にする必要もないとは思うが、普段寡黙な旦那様が奥様を褒めることはそうないので、良いスパイスになるだろう。
「ただ、やたらと褒めるのはいけません」
「そうなのか?」
「ええ、もちろん。タイミングが悪い中で褒めても、女性の怒りは増えるのみです。しっかりと様子を見て、機会を見定める必要があります」
「……わかった」
短くそう言い、旦那様は手袋をぎゅっと見つめた。
「ルイーゼの予定が問題ないなら、今回は参加の返事をしておいてくれ。仕事のほうはトルネオと相談しておく」
「かしこまりました」
私は一礼し、部屋を辞した。
◆
「……おや?」
王妃殿下主催の夜会の日。
奥様がリズに目一杯おめかしされていて、そろそろ旦那様も準備ができただろうか、と部屋に向かおうとしていた矢先、旦那様がこちらに向かって走ってきた。
その身には、今日の夜会のための盛装ではなく、騎士団団長のための制服と剣をまとっていた。
「いかがされましたでしょうか、旦那様」
「すまない、トルネオから至急の救援要請が来た」
おそらく相当至急のことなのだろう。
普段であれば手紙のようなものが侯爵邸に届き、私のもとにそれが届いて旦那様にお伝えするという流れだが、伝書鳩などで直接旦那様のもとに行ったこととなる。
「それでは、本日はお休みされますか?」
「いや、しない」
そうハッキリと、旦那様は言い切った。
「さようでございますか」
「だから、悪いがルイーゼに言っておいてくれるか」
「……ふむ」
そこで少しばかり考え、私はかぶりを振る。
旦那様の目がかすかに見開かれるが、こればかりは賛同しかねた。
「こういうのは、直接言ったほうがよろしいのですよ」
手短に助言めいたことを言い、私は旦那様とともに奥様の部屋へ向かった。
『騎士団のほうから緊急要請が来たから行ってくる。必ず間に合わせるから、待っていてほしい』
『かしこまりました。ずっと待っていますから、怪我には気を付けてください』
奥様はまだまだ準備中ということだったので、面と向かってお話しすることは叶わなかったが、旦那様方は扉越しにしっかりと話すことができたようだ。
ここからは、私やリズの仕事の番だ。
奥様の用意が終わるなり、リズやメイドたち、使用人たちを一か所に集める。
「旦那様のお仕事の終わりは見えないから、どうなってもいいように動く。侍女たちは――」
旦那様がいつ戻ってこられてもいいよう、そして万が一遅くなったときでも、二人に一切の恥をかかせないよう、起こりうるすべてのことに準備をするのだ。
そうして私は方々に指示を出し、侍女や使用人たちは一斉に動き始めた。