旦那様は二人きりになると無口になるから仮初の夫婦なのかと思っていたけど、意外とそうでもなかった
閑話 執事の証言 その1
アルベルト・フォンダン侯爵は、それはそれは寡黙な人間である。
今でこそ王都騎士団を統括することもありそれなりに指示を出す必要があるので少しは言葉を発するようになったらしいが、普段の生活では一言も喋らないことが往々にしてある。
私、ジェイクが彼に仕えるようになってから、すでに三十年弱。
そんな私でさえも、彼が話すところを見ると少しばかり驚いてしまう。
とはいえ別に旦那様は寡黙ではあれど、不機嫌な様子を周りに見せようとしたり、黙っていて周りの雰囲気を壊したりするような人ではない。
ただ、本当に表情に乏しく、寡黙なだけなのだ。
いつも通りの、とある日の夜のこと。
「……なあ、ジェイク」
「はい、旦那様」
旦那様の執務室で食器を片付けていると、ふいに彼が私に話しかけてきた。
ちょうど仕事が終わり就寝しようというタイミング。
もしかしたら寝入るためのミルクか何かを所望するのかもしれない。
私はいつも通りに新しい食器を二段のティートローリーの下段から取り出すと、手早く用意を始める。
しかし旦那様はそれを手で制した。
「……少し、話してもいいか」
「お話、ですか?」
「ああ。……ただの雑談なのだが」
「雑談……!?」
旦那様に仕えてはじめてこのかた、彼に雑談を提案されたことがなく、内心ではとても驚いてしまう。
平静を保ちながらも「もちろんでございます」と答える。
もしかしたら少し震えていたかもしれないが、旦那様はとくにそれを気にすることもなく、両手を組んで執務机の上に置く。
そして、ポツポツと話しはじめた。
「今日……ルイーゼが、俺の仕事を、見てくれた」
侍女のリズから聞いたところによると、何やら奥様は思うところがあって、今日旦那様の仕事を見に行ったのだとか。
旦那様は今日非番ではあったものの、奥様のお願いをぜひ叶えたいという気持ちがとても強くなり、副団長のトルネオ男爵にお話しされて、急遽仕事にしてもらっていた。
「ええ。それはとても良かったですね」
「……ご令嬢は、王都騎士団より華やかな近衛騎士団のほうに興味を持つと思っていたから、嬉しかったんだ」
旦那様の勤める王都騎士団は、主に王都の周囲の治安を守る任務のため、礼服こそ煌びやかではあるものの、普段は動きやすく敵から視認されにくいという機能性重視の制服であるし、そもそも魔物と戦うなど荒い仕事が主。
男性陣や平民からの信頼は厚いものの、やはり貴族の令嬢は、普段から煌びやかな制服で、見目麗しい御仁の多い近衛騎士団を応援することが多いと聞く。
嬉しい、と話す旦那様の口端が、心なしか上がっているように見える。
私も仕えてから十年ほどしてやっとわかるようになったのだが、存外旦那様は感情を素直に表に出すのだ。
嬉しいときは笑うし、悲しいときは眉尻を下げる。
恥ずかしいときは赤面しさえする。
滅多に怒りを表に出すことはないから見たことはないが、きっと怒るときは眉間に皺を寄せるはず。
ただその感情の出し方がとても微細なものすぎて、長らく接していないとわからないのだが。
そんな彼が――私がこれまで見た中ではとくにわかりやすく――笑みを浮かべていた。
「……嬉しかった」
まるで嚙みしめるように、旦那様は再びそう言う。
「それはようございましたね」
「…………ああ」
旦那様はそう言って、再び嬉しそうな表情で口を閉じ、執務机の上に置いてあったハンカチを手に取った。
よく見るとレースのあるそれは、どうにも旦那様には似つかない。
少しばかり血やほこりなんかで汚れているそれを、彼は愛おしそうに見つめていた。
「おや旦那様。それは奥様のハンカチでいらっしゃいますか?」
「……ああ」
普段の旦那様は騎士団の制服の袖口で、顔や手についた汚れを拭き取るが、今日はあまりそれがついていなかった。
今日はあまり魔物に遭遇しなかったのかと思っていたがそうではなく、奥様がハンカチで拭ってくれたのか。
そう尋ねると、旦那様は嬉しそうにしたままコクリと頷いた。
嬉しそうにしたままハンカチを見下ろす旦那様は、どこか幼い頃の彼を思い出してなんとなく懐かしくなる。
とはいえそれはすぐにリズに渡して洗ってもらわないと、怒られることになると思うが。
「では、お返しをしないといけませんね」
私がそう言うと、旦那様はハッとした様子でかすかに目を見開いた。
旦那様はこれまであまり人と接することがなかったから、その考えには至っていなかったのかもしれない。
「そうですね……通常であれば私たちのほうで色々と内容を決めることも多いのですが、旦那様が決められたほうが、奥様も喜ばれるのかなと思います」
「……ふむ」
すると彼は視線をハンカチに下ろして、考え込みはじめてしまった。
きっといま旦那様の頭の中では、どんなプレゼントを渡したら奥様が喜んでくれるのか、というのを必死に考えていることだろう。
「……明朝に改めて伝える。もう下がっていい」
ちらりとこちらを一瞥した旦那様はそれだけ言うと、再び思案に耽り始めた。
こうなると、旦那様は本当に長い。
彼も自覚してるから、私の業務を終わらせたのだろう。
旦那様の性格の良さに、ふふ、と微笑みが漏れてしまう。
「かしこまりました。ごゆっくりとお休みください。あまり夜更かししすぎないようにしてくださいませ」
そうして私はティートローリーに温かいミルクを用意してから、執務室を退室した。
翌日、私が旦那様を起こしに行くとすでに彼は起きており、プレゼントの内容を伝えられた。
「とても良いと思います。奥様をお喜びになるかと」
「……ああ。今から行ってくる」
そうして彼は、御者とともに自ら下町へ行ってしまった。
ご自身でプレゼントを買いに行くなんて、相当嬉しかったのだろう。
「……本当に、良かったですね」
下町に向かって去り行く馬車を見送りながら、私は温かさを胸に感じながらそう呟いた。
今でこそ王都騎士団を統括することもありそれなりに指示を出す必要があるので少しは言葉を発するようになったらしいが、普段の生活では一言も喋らないことが往々にしてある。
私、ジェイクが彼に仕えるようになってから、すでに三十年弱。
そんな私でさえも、彼が話すところを見ると少しばかり驚いてしまう。
とはいえ別に旦那様は寡黙ではあれど、不機嫌な様子を周りに見せようとしたり、黙っていて周りの雰囲気を壊したりするような人ではない。
ただ、本当に表情に乏しく、寡黙なだけなのだ。
いつも通りの、とある日の夜のこと。
「……なあ、ジェイク」
「はい、旦那様」
旦那様の執務室で食器を片付けていると、ふいに彼が私に話しかけてきた。
ちょうど仕事が終わり就寝しようというタイミング。
もしかしたら寝入るためのミルクか何かを所望するのかもしれない。
私はいつも通りに新しい食器を二段のティートローリーの下段から取り出すと、手早く用意を始める。
しかし旦那様はそれを手で制した。
「……少し、話してもいいか」
「お話、ですか?」
「ああ。……ただの雑談なのだが」
「雑談……!?」
旦那様に仕えてはじめてこのかた、彼に雑談を提案されたことがなく、内心ではとても驚いてしまう。
平静を保ちながらも「もちろんでございます」と答える。
もしかしたら少し震えていたかもしれないが、旦那様はとくにそれを気にすることもなく、両手を組んで執務机の上に置く。
そして、ポツポツと話しはじめた。
「今日……ルイーゼが、俺の仕事を、見てくれた」
侍女のリズから聞いたところによると、何やら奥様は思うところがあって、今日旦那様の仕事を見に行ったのだとか。
旦那様は今日非番ではあったものの、奥様のお願いをぜひ叶えたいという気持ちがとても強くなり、副団長のトルネオ男爵にお話しされて、急遽仕事にしてもらっていた。
「ええ。それはとても良かったですね」
「……ご令嬢は、王都騎士団より華やかな近衛騎士団のほうに興味を持つと思っていたから、嬉しかったんだ」
旦那様の勤める王都騎士団は、主に王都の周囲の治安を守る任務のため、礼服こそ煌びやかではあるものの、普段は動きやすく敵から視認されにくいという機能性重視の制服であるし、そもそも魔物と戦うなど荒い仕事が主。
男性陣や平民からの信頼は厚いものの、やはり貴族の令嬢は、普段から煌びやかな制服で、見目麗しい御仁の多い近衛騎士団を応援することが多いと聞く。
嬉しい、と話す旦那様の口端が、心なしか上がっているように見える。
私も仕えてから十年ほどしてやっとわかるようになったのだが、存外旦那様は感情を素直に表に出すのだ。
嬉しいときは笑うし、悲しいときは眉尻を下げる。
恥ずかしいときは赤面しさえする。
滅多に怒りを表に出すことはないから見たことはないが、きっと怒るときは眉間に皺を寄せるはず。
ただその感情の出し方がとても微細なものすぎて、長らく接していないとわからないのだが。
そんな彼が――私がこれまで見た中ではとくにわかりやすく――笑みを浮かべていた。
「……嬉しかった」
まるで嚙みしめるように、旦那様は再びそう言う。
「それはようございましたね」
「…………ああ」
旦那様はそう言って、再び嬉しそうな表情で口を閉じ、執務机の上に置いてあったハンカチを手に取った。
よく見るとレースのあるそれは、どうにも旦那様には似つかない。
少しばかり血やほこりなんかで汚れているそれを、彼は愛おしそうに見つめていた。
「おや旦那様。それは奥様のハンカチでいらっしゃいますか?」
「……ああ」
普段の旦那様は騎士団の制服の袖口で、顔や手についた汚れを拭き取るが、今日はあまりそれがついていなかった。
今日はあまり魔物に遭遇しなかったのかと思っていたがそうではなく、奥様がハンカチで拭ってくれたのか。
そう尋ねると、旦那様は嬉しそうにしたままコクリと頷いた。
嬉しそうにしたままハンカチを見下ろす旦那様は、どこか幼い頃の彼を思い出してなんとなく懐かしくなる。
とはいえそれはすぐにリズに渡して洗ってもらわないと、怒られることになると思うが。
「では、お返しをしないといけませんね」
私がそう言うと、旦那様はハッとした様子でかすかに目を見開いた。
旦那様はこれまであまり人と接することがなかったから、その考えには至っていなかったのかもしれない。
「そうですね……通常であれば私たちのほうで色々と内容を決めることも多いのですが、旦那様が決められたほうが、奥様も喜ばれるのかなと思います」
「……ふむ」
すると彼は視線をハンカチに下ろして、考え込みはじめてしまった。
きっといま旦那様の頭の中では、どんなプレゼントを渡したら奥様が喜んでくれるのか、というのを必死に考えていることだろう。
「……明朝に改めて伝える。もう下がっていい」
ちらりとこちらを一瞥した旦那様はそれだけ言うと、再び思案に耽り始めた。
こうなると、旦那様は本当に長い。
彼も自覚してるから、私の業務を終わらせたのだろう。
旦那様の性格の良さに、ふふ、と微笑みが漏れてしまう。
「かしこまりました。ごゆっくりとお休みください。あまり夜更かししすぎないようにしてくださいませ」
そうして私はティートローリーに温かいミルクを用意してから、執務室を退室した。
翌日、私が旦那様を起こしに行くとすでに彼は起きており、プレゼントの内容を伝えられた。
「とても良いと思います。奥様をお喜びになるかと」
「……ああ。今から行ってくる」
そうして彼は、御者とともに自ら下町へ行ってしまった。
ご自身でプレゼントを買いに行くなんて、相当嬉しかったのだろう。
「……本当に、良かったですね」
下町に向かって去り行く馬車を見送りながら、私は温かさを胸に感じながらそう呟いた。