調香師の彼と眼鏡店の私 悩める仕事と近づくあなた
4調香師の彼
 香水をみせてくれると言った小笠原は、紗奈を展示スペースに連れていくのではなく、事務室にフレグランスボトルをいくつか持ってきてくれた。怪我を心配してくれているのだろう。小さな気遣いが嬉しかった。

「亀井様は普段、香水を使用されますか?」

 微笑みを浮かべた小笠原は、眼鏡を買いに来た時とも、先程までとも、雰囲気が変わっていた。

(これが接客中の小笠原様……)

 凛とした雰囲気の中に柔らかさがある。この人に勧められたら何でも買ってしまいそうだ。
 雰囲気に呑まれそうになった紗奈は慌てて首を振った。

「あのっ、亀井様と呼ぶのは止めてください。小笠原様にそう言われるのは……」
「そうですか? では亀井さん、硝華堂の外では僕の事もただの小笠原と呼んでください」
「お、小笠原さん……」

 呼んでみると違和感で口がカラカラに乾燥した。

(目の前にいるのはお客様だけど、今は店員さんよ。私もちゃんと切り替えなきゃ)

「亀井さんはお好きな香りはございますか?」

 目の前で微笑む彼は、当然だけれど眼鏡をかけていない。

(どうせなら眼鏡をお渡しした後にこのお店を見つけたかったわ。きっと店の雰囲気にも良く合うはず。綺麗すぎるお顔をうまく雰囲気に馴染ませられて……って、ダメダメ。私は今、店員じゃないんだった)

 余計な考えを頭のすみに追いやって、香りについて考えてみる。
 けれど――。

「ごめんなさい、考えたこともなくて」

 紗奈は正直に白状した。香水なんてつけたこともない。そもそもシャンプーや洗濯洗剤なども香りで選んだことはなかった。
 小笠原は気を悪くした様子もなく深く頷く。

「接客業ですと香水をつける機会は少ないですよね。そうだ、これをやってみますか? お客様用のカウンセリングシートなんですけど」

 そう言って差し出されたのは、一枚の紙だった。そこにはいくつかの質問事項が書かれている。一見、香りに関係の無さそうな質問もある。
 好きな食べ物、好きな場所、どんなシーンで使いたいか、そして――。

「どんな自分になりたいか……」

 なりたい自分。
 自分の将来。
 今後のキャリア――。

 連想ゲームのように仕事のことを思い出し、深いため息が漏れた。

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