調香師の彼と眼鏡店の私 悩める仕事と近づくあなた
5近づく距離
 家に帰った紗奈は、今日一日を振り返った。
 仕事のこと、香水店でのこと、小笠原のこと――。

「怒涛の一日だったなー……けど、楽しかったな。うん」

 少し動く度にエンドノートがほのかに香ってくる。紗奈は小笠原の話を思い返していた。

「悩んでいるのは私だけじゃないんだな」

 そう思うだけで、紗奈の心は軽くなった気がした。




 小笠原と連絡先を交換して以来、美術館の日程決めだけでなく、他愛もないメッセージが送られてくるようになった。

『最近はネット注文も増えてきて、お客様と直接顔を合わせなくても香りをお届けできるので気が楽です。あ、もちろん眼鏡効果も期待しています』
『この間、テレビで美術館特集をやっていました。『食とアート展』も出ていましたよ。今から楽しみです』
『新築マンションを検索したら、ネットの広告がマンションだらけになっちゃいました。これは見てしまいますね』

 といった内容から、『接客業の醍醐味あるある』のような話まで、彼とのやり取りは尽きることがなかった。
 夜、寝る前に二、三通やり取りをするだけなのだが、紗奈にとって癒しの時間となっていった。

 毎晩、通知が鳴るたびに紗奈の心が跳ねる。まるで付き合いたての恋人のような気がして、照れくさい気持ちと申し訳なさが入り交じる。

(小笠原さんにとっては普通のことなのよ。浮かれたら駄目。……これは恋じゃない)

 自分にそう言い聞かせるけれど、楽しさまでは隠しきれない。美術館へ行く日までのことだから、と言い訳をしながら今日もやりとりをするのだった。


『小笠原さんの香水をつけていると本当に前を向けるんです。私、自分のキャリアのことをちゃんと考え始めました。まだ答えは出ないですけど』

 ある時、紗奈からメッセージを送るとすぐに既読がついた。
 そしてすぐに電話がかかってきたのだ。急なことに心臓がドキリと跳ねる。慌てた紗奈は、落としそうになったスマホを握りしめてすぐに電話にでた。

「も、もしもし」
「急にすみません。お時間大丈夫ですか?」
「はい、もちろん」

 電話越しの小笠原にドキドキが伝わらないよう、紗奈は冷静さを保とうとした。

「先程のメッセージを読んでつい……衝動的にかけてしまいました。僕もちょうどそのことを考えていたものですから」
「え? さっきの?」

 紗奈がきょとんと返すと、小笠原が少し笑う声が漏れてきた。

「僕もマネージャーの件、ちゃんと考えることにしました。この間、亀井さんへ香水をお渡しした時に気がついたんです。調香は好きだけれど、それ以上に、香りを皆に届ける仕事全部が好きなんだって」
「仕事全部……」

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