側溝の天使

第38話 躾の矛盾

「ありがとうございました。それでは次に、今回討論会を提案しました知事から発言いたします」

その時、突然前田さんが手を挙げました。

「あのう、その前に沢井さんにひとつ質問をさせてもらってもよろしいでしょうか?」

司会者は戸惑いの表情を見せながらも、

「沢井さん、よろしいでしょうか?」

「はい、どうぞ」

と申し上げたものの、一体どんな質問が飛び出すのか気が気ではありませんでした。



「先ほど、タヌキの顔や仕草を見ていたら捕獲して食べる考えは無いと仰いました。ではお聞きしますが、お二方は牛や豚、それに馬の肉などは食べておられないのでしょうか? 牛・豚・馬とタヌキはどう違うのでしょうか? 牛や豚や馬もとても可愛い顔をしておりますが」



冷めた感情から発せられた鋭い質問に、会場からは思わず苦笑と共に小さな拍手が起きました。



咄嗟の質問にどう対処してよいのか迷いました。私からすると詮無き問いにも思えたからです。あやうくポン子がジビエ料理にされそうになったあの一件が脳裏に浮かびました。



「あのう、私も家内も馬肉は食べませんが、牛肉や豚肉は美味しく頂いております。私が先ほど述べましたのは、乳飲み子の状態から愛情をかけて育てたタヌキのポンちゃんですから、食用にするなどもってのほかと申し上げた次第です」



「あのう、私には“牛肉や豚肉は食べてもよいが、タヌキの肉はダメだ”というふうに聞こえましたが」



「そ、そうは言っておりません」



啓子が余程腹に据えかねたのでしょう、割って入りました。



「私からよろしいでしょうか。私たちがタヌキのポンちゃんの命の大切さを申し上げながら、一方で牛や豚を食べているのは矛盾しているかもしれません。牛や豚などの家畜は、子供の頃からの習慣として食べておりましたから。主人も私もポンちゃんを育てていくうちに段々と愛情が深くなり、守ってあげたい一心でここまでやってきました」



私が言いにくかったことを、啓子が見事に援護してくれました。



「前田様、よろしいでしょうか? それでは知事に登壇願います」



知事は司会者が使っている隅のスタンドマイクまで進みました。



「これまでのお二方の貴重なご意見、誠にありがとうございました。野生の動物が極端に増えても減っても問題です。今、前田様のところでは害獣によって畑の作物が荒らされております。そこで駆除が緊急の課題です。その一方で沢井様は、救われた命であれば養育していきたいとのご希望をお持ちです。どちらのご意見も正論です。今後は、国や自治体がお互いの意見を尊重しながら施策を考えていかなければなりません。



大変難しい課題ではございますが、前田様の立場からすれば、まず第一に作物を荒らされないように、野生動物を異常繁殖させないこと。第二に、野生動物の生態系を調べ、住環境を整えていくことが求められます。特に、最近はタヌキに似たアライグマが日本中に増えております。アライグマは外来種です。本土タヌキのような固有種を駆逐しかねません。こうした問題にも対処していく必要があります。そのためにも、動物に詳しい専門家のご意見を交えながら、国や自治体が計画を立てて手段を講じる必要があると考えております。



一方、沢井様の立場からは、野生動物を保護し、むやみに殺処分を行わないことが大切です。ワンヘルスの観点からすれば、生物多様性のバランスを保ち、地球温暖化といった環境変化の影響を少しでも抑えて、生物が絶滅していかないようにしなければなりません。つまり、動物を適切に維持するためには、さまざまな施策や環境づくりが必要なのです。



また、林業に従事する若者の育成もおっしゃる通り重要です。食料自給率の向上には農業従事者の方々の存在が不可欠です。農業の後継者がやりがいを感じられるよう、支援をしていくことも大切だと考えております。つまり、多方面にわたる施策を組み合わせて、解決に向かわなければならないというのが、私の所感でございます」



広い視野からの知事の発言は、高ぶる心を静めてくれました。



その後、県議から様々な質問が繰り出されました。中でも一人の県議の質問には、喉仏に骨が刺さったような妙なひっかかりを覚えました。



「それでは私から一つ質問させていただきます。昨年、ワンヘルスに関連してアザラシの保護について話を聞きに北海道紋別市を訪れました。アザラシはオホーツク海沿岸で、冬から春にかけて見ることができます。かつては皮や脂肪目当てで乱獲されておりました。



保護の取り組みとして役立っているのが『オホーツクとっかりセンター』です。“とっかり”はアイヌ語のアザラシを指す“トゥカㇻ”が訛ったものです。ここではアザラシの赤ちゃんや衰弱した子どもたちを保護しております。原則として一年以内に必ず海に返すこと。また、人慣れを防ぐために、餌の魚は直接手であげず、プールに投げ込むようにしているそうです。飼育係の方もアザラシに名前を付けず、声かけも極力しないようにしているとのことでした。まさに保護が適切に行われることの重要さを感じた次第です」



視察の成果を得意げに語る中には納得できる点もありましたが、問題はその後でした。



「そこで沢井様にお伺いします。タヌキを自宅で飼うべきか自然に帰すべきか決めかねておられるのに、画面に映っていたようなお手やおかわりのような躾を教える必要性があったのでしょうか? それから、ハムやドッグフードは大自然の中では食べることができません。もっと自然に帰すためには、自然界で得られる食物を心がけておられた方がよろしかったのではないでしょうか?」



まことに的を射た鋭い質問でした。じわじわと背中に冷や汗がにじんできました。どう答えてよいのか、即答しかねました。

-続-
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