側溝の天使

第42話 遠きゆりかご

日々、温かさが増し、木々の芽吹きも活発になって参りました。私と啓子は、福岡県での討論会に端を発した今回の出来事を通して、自然に帰すことがポン子にとって一番幸せだという結論に達しました。それは、取りも直さずポン子の行動にも表れておりました。



狸は夜行性であることに加え、ハンモックの紐をかじってすぐに駄目にしたり、食器とトイレ用の陶磁器の入れ物を足で何度も蹴って壊したり、クッションをかじって中身を出したり、鉄のケージに体当たりして大きな音を立てたりと、枚挙にいとまがございません。



ケージの中で飼われ、ストレスを溜めるよりも、山の中を好き勝手に駆け回る方が遥かに幸せでございましょう。ただ、元の雑餉隈の側溝へ戻す気にはなれません。側溝は住宅地の中にあり、周りには山も川もありません。しかも人も車も行き交っています。もし車に轢かれたら、もし人に噛みついたら……。そう思うと心が難破しかけます。



思い切って、静岡の久永さんに相談いたしました。

「ここは遠いけど、もしこちらまで連れて来られるのだったら、自然の中で暮らすのも可能だと思いますよ」



一番の心配を久永さんにぶつけました。

「ポン子は自然に慣れますかね?」

「いきなりは無理かもしれないわね。でもここは川があって、藪があって、何よりも鳥や狐や野ウサギもいますよ。いわば広大な生命を育む自然のゆりかごなんです。時間が経てばきっと慣れてくるのでは?」



「申し分のない場所の様ですね。ただ、お手、お替りをすると私から食べ物をもらうことができますが、果たして自分で餌を探すことができる様になりますか? またタヌキの仲間達と上手くやっていけますか?」

矢継ぎ早に質問を投げかけました。



「それは狸が本来持っている本能に頼るほかはないかも。しばらく私の自宅の庭で様子を見て、タイミングが合えば野に放したらどうでしょうか? 自然に帰しても、毎日乳母イーツ持っていきますから。観察もできるわよ。それに上手くいけば元ちゃんとカップルになれるかもね」



“元ちゃんとカップル”と聞くと、私の気持ちが少し動きました。ただ、これまでのことを思うと忍びなく、辛くてたまりません。電話を終えてしばらく、ポン子を抱っこして椅子に座り、ブラッシングをしながら久永さんとのやりとりを反芻しておりました。



この頃には、ポン子の体重も6.8キロになり、それ以上は増えなくなっておりました。啓子がコーヒーを運んでくれましたので、



「元ちゃんフィールドに連れて行こうか?」

それが唯一の選択肢の様な気が致しました。

「それがポンちゃんにとって一番良いのかもね」



啓子も同じことを考えていたのでしょう。連れて行くとなりますと、移動手段は車です。福岡から静岡までは、およそ900キロ以上ございます。遠く離れた異郷の地に思いを馳せて、今日はそろそろこの辺に致します。

-続-
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