側溝の天使
第44話 集いの日
出発を数日後に控えた夜、啓子の発案で、これまでポン子と関わりのあった方々6人を自宅にご招待しました。ポン子の送別会です。
ポン子を連れて来られた富田さんと田中さん、それから中岡獣医と外平獣医。さらにケージを作ってくれた近所の久保さんと松田さん。久保さんと松田さんは、これまで何度も立ち寄ってくれているので、ポン子とも顔なじみです。さて、どんな話になりますやら。
送別会の昼、ピンポーンとチャイムが鳴ると、いつものようにポン子が「キューッ」と反応いたしました。
富田さんはポン子のためにバニラアイスを、田中さんはロースハムを、それから中岡獣医と外平獣医は味の薄いプレーンのクッキーの詰め合わせを持参してくださいました。
「私、保護した時は正直どうしたものか迷いました。乳飲み子を育てたことなかったから。富田さんに相談したら、沢井さんを紹介してくださって」
「そう。私もこれまで乳飲み子を育てた経験がなかったから、沢井さんだったら何とかなると思って。でも、ここまで来るのがもう少し遅かったら助かってなかったかも。車の中でだんだん元気がなくなるので、本当に冷や冷やでした。田中さんは、衰弱している姿を見かねて、車中ずっとポンちゃんに息を吹きかけていましたから」
田中さんが急に真剣な顔になりました。
「それと、沢井さんご夫婦に猫の乳飲み子として預けたまでは良かったけど、まさかタヌキの赤ちゃんだったとは想像だにしていませんでした。わかってからは一時、どうしたら良いか途方に暮れました」
「田中さんが最後は獣医さんのところへ連れて行って、安楽死をお願いすることを考えていると言われた時は、もう家内も私もびっくり仰天でした」
「こんな可愛い子を、絶対に安楽死にはさせられないと、必死でしたから」
中岡獣医がすぐに反応しました。
「あたしも絶対反対。日ごろ命を救うことが獣医の仕事でしょう。獣医師の使命とは相いれません。だから『安楽死お願いします』って連れて来られたら、絶対追い返します!」
場が笑い声に包まれました。
外平獣医が真剣そうな顔つきで、
「そうそう、私が紹介した飯塚市の獣医さんのその後だけど……脳梗塞で緊急入院されて、その後、肺炎を併発されて亡くなられたの。残念だったけど、ポンちゃん、行かなくて良かったかもね」
動物に造詣が深く、優しい老医師の顔がすぐに浮かびました。
「そういえば、N先生は待合室でみんなに自慢して見せてまわってましたよね」
「もう珍しくてね。あの時、ポンちゃんにワクチンの注射をしたら、タヌキの皮膚ってこんなに堅いのだということが分かったのよ」
啓子がテーブルに料理を配膳していると、いつものようにポン子がケージの扉を忙しなく動かしています。おやつの催促です。
さっそくいただいたアイスクリームをスプーンですくって、いつものように――
「はい、ポンちゃん、皆さんの前でお座りをして見せて。ハーイよくできました。そしたらお手、はいお替り。上手やねぇ。そしたらこんどは背中に乗って、はーい、よくできてる。はい、おつむてんてん。はいO.K.。よくできました」
一連の芸を完璧にこなしてくれました。
こんな躾とも、もうすぐお別れです。一抹の寂しさを感じておりますと、中岡獣医が話を継ぎました。
「ポンちゃんてね、生命力があるのよ。ここにいるグレーの猫ちゃんと一緒に連れて来られた時には、尻尾が何か妙に銀色に光って見えたの。おかしいと思って針で刺したら、赤黒い血膿が出てきたのよ。そのままにしていたら、多分命はなかったと思う」
「針で尻尾を刺された時は、よっぽど痛かったのでしょうね。あの時は身体もまだ小さいのに、ものすごく抵抗しましたから」
啓子が懐かしそうに思い出していました。
「ポンちゃんってね、危険を察したのか、すぐに臭腺から匂いを発散したのよ。診察室に、それはそれはもう異様な匂いが充満して、たまらなかったわね」
久保さんは焼酎の水割りを口に運びながら、
「ケージを作った後で、ポンちゃんは自分のトイレの器を前足で何度も蹴るから、周りにオシッコがこぼれてしまって。床に張っていたビニールのすき間から下に漏れてきたね。沢井さんから再度頼まれて、一度張っていた厚手のビニールを剥がした時は、ものすごい匂いがしたなぁ」
松田さんはコップのビールを飲み干すと、
「もうこれで張り替える必要はなくなったけど、ちょっぴり寂しい気もしますね」
みんな代わる代わるポン子に目をやりながら、春の夜の楽しい時間がゆっくりと流れていきました。
「ポンちゃん、元気にしとくのよ」
「ちゃんと自分で食べ物を探してね」
「それから外敵にはくれぐれも気をつけとくのよ」
「元ちゃんによろしくね」
「ポンちゃん、さよなら」
ポン子に関わった皆さんが、それぞれに別れを惜しんでくれました。
ポン子にどのくらい伝わったかはわかりませんが、ちょっぴり寂しい雰囲気でした。夜更けは少し冷えてまいりました。今晩はこれで、失礼いたします。
-続-
ポン子を連れて来られた富田さんと田中さん、それから中岡獣医と外平獣医。さらにケージを作ってくれた近所の久保さんと松田さん。久保さんと松田さんは、これまで何度も立ち寄ってくれているので、ポン子とも顔なじみです。さて、どんな話になりますやら。
送別会の昼、ピンポーンとチャイムが鳴ると、いつものようにポン子が「キューッ」と反応いたしました。
富田さんはポン子のためにバニラアイスを、田中さんはロースハムを、それから中岡獣医と外平獣医は味の薄いプレーンのクッキーの詰め合わせを持参してくださいました。
「私、保護した時は正直どうしたものか迷いました。乳飲み子を育てたことなかったから。富田さんに相談したら、沢井さんを紹介してくださって」
「そう。私もこれまで乳飲み子を育てた経験がなかったから、沢井さんだったら何とかなると思って。でも、ここまで来るのがもう少し遅かったら助かってなかったかも。車の中でだんだん元気がなくなるので、本当に冷や冷やでした。田中さんは、衰弱している姿を見かねて、車中ずっとポンちゃんに息を吹きかけていましたから」
田中さんが急に真剣な顔になりました。
「それと、沢井さんご夫婦に猫の乳飲み子として預けたまでは良かったけど、まさかタヌキの赤ちゃんだったとは想像だにしていませんでした。わかってからは一時、どうしたら良いか途方に暮れました」
「田中さんが最後は獣医さんのところへ連れて行って、安楽死をお願いすることを考えていると言われた時は、もう家内も私もびっくり仰天でした」
「こんな可愛い子を、絶対に安楽死にはさせられないと、必死でしたから」
中岡獣医がすぐに反応しました。
「あたしも絶対反対。日ごろ命を救うことが獣医の仕事でしょう。獣医師の使命とは相いれません。だから『安楽死お願いします』って連れて来られたら、絶対追い返します!」
場が笑い声に包まれました。
外平獣医が真剣そうな顔つきで、
「そうそう、私が紹介した飯塚市の獣医さんのその後だけど……脳梗塞で緊急入院されて、その後、肺炎を併発されて亡くなられたの。残念だったけど、ポンちゃん、行かなくて良かったかもね」
動物に造詣が深く、優しい老医師の顔がすぐに浮かびました。
「そういえば、N先生は待合室でみんなに自慢して見せてまわってましたよね」
「もう珍しくてね。あの時、ポンちゃんにワクチンの注射をしたら、タヌキの皮膚ってこんなに堅いのだということが分かったのよ」
啓子がテーブルに料理を配膳していると、いつものようにポン子がケージの扉を忙しなく動かしています。おやつの催促です。
さっそくいただいたアイスクリームをスプーンですくって、いつものように――
「はい、ポンちゃん、皆さんの前でお座りをして見せて。ハーイよくできました。そしたらお手、はいお替り。上手やねぇ。そしたらこんどは背中に乗って、はーい、よくできてる。はい、おつむてんてん。はいO.K.。よくできました」
一連の芸を完璧にこなしてくれました。
こんな躾とも、もうすぐお別れです。一抹の寂しさを感じておりますと、中岡獣医が話を継ぎました。
「ポンちゃんてね、生命力があるのよ。ここにいるグレーの猫ちゃんと一緒に連れて来られた時には、尻尾が何か妙に銀色に光って見えたの。おかしいと思って針で刺したら、赤黒い血膿が出てきたのよ。そのままにしていたら、多分命はなかったと思う」
「針で尻尾を刺された時は、よっぽど痛かったのでしょうね。あの時は身体もまだ小さいのに、ものすごく抵抗しましたから」
啓子が懐かしそうに思い出していました。
「ポンちゃんってね、危険を察したのか、すぐに臭腺から匂いを発散したのよ。診察室に、それはそれはもう異様な匂いが充満して、たまらなかったわね」
久保さんは焼酎の水割りを口に運びながら、
「ケージを作った後で、ポンちゃんは自分のトイレの器を前足で何度も蹴るから、周りにオシッコがこぼれてしまって。床に張っていたビニールのすき間から下に漏れてきたね。沢井さんから再度頼まれて、一度張っていた厚手のビニールを剥がした時は、ものすごい匂いがしたなぁ」
松田さんはコップのビールを飲み干すと、
「もうこれで張り替える必要はなくなったけど、ちょっぴり寂しい気もしますね」
みんな代わる代わるポン子に目をやりながら、春の夜の楽しい時間がゆっくりと流れていきました。
「ポンちゃん、元気にしとくのよ」
「ちゃんと自分で食べ物を探してね」
「それから外敵にはくれぐれも気をつけとくのよ」
「元ちゃんによろしくね」
「ポンちゃん、さよなら」
ポン子に関わった皆さんが、それぞれに別れを惜しんでくれました。
ポン子にどのくらい伝わったかはわかりませんが、ちょっぴり寂しい雰囲気でした。夜更けは少し冷えてまいりました。今晩はこれで、失礼いたします。
-続-