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◆第3章 透明な反射
     ◆



『いい子でいてね』

 あの人はもういない。
 残されたその言葉だけが、いまの自分を形づくっている。



     ◇



 暴露予告から2日と経たずして、事件は起こった。

 踏み入れた教室は異様な空気に包まれており、それぞれスマホを片手に何かを囁き合っている。
 わたしが現れた途端、ちらちらと寄越される視線。中には指をさしてくる人もいた。
 口元にたたえている笑みは好奇(こうき)のそれにほかならない。

(なに……?)

 妙な居心地の悪さに晒されて思わず足を止める。
 そのとき、誰かの声が耳に届いた。

「やっぱり……これ、天沢さんだ」

 わたしが、なに?
 振り向いて目が合うと、気まずそうに逸らされる。
 眉をひそめながら視線を振り向けたとき、思わぬものが目に飛び込んできた。

 “天沢乙葉=@Oto_××××”

 黒板にでかでかと書き殴られた文字。
 わたしの、というかOtoのアカウントのユーザー名だった。

「うそ、乙葉が?」

 耳の表面を撫でていったのはどこか遠い亜里沙の声。
 だけど、わたしは黒板から目を逸らせないでいた。
 瞬きも呼吸も忘れたまま愕然と立ち尽くす。

(何で……)

 いや、何でかは分かっている。
 (ジョーカー)に先を越されたのだ。
 分かっているのに、何で、と頭の中で繰り返される。
 ぐらぐらと足元が揺れ、心臓が早鐘(はやがね)を打った。

「でも、ねぇ? これって……」

「設定盛りすぎ?」

 形を留めないざわめきの隙間でそんな言葉を拾う。
 さざめくような笑い声が、鋭い針みたいに身体中を突き刺してきた。
 かぁ、と顔が熱くなり、気づいたときには床を蹴っていた。
 逃げるように教室を飛び出していく。

「乙葉がこんなことしてたなんて本当にびっくりだよね」

 戸枠を過ぎる瞬間、ひときわ鮮やかに杏の声が耳についた。
 ばかにしているというより、単に驚きの気配が強い。

(よく言う……!)

 あんたがやったくせに。
 いま知ったばかりみたいな、白々しいリアクション────。
 ふっと逆流していた血の渦が凪ぐ。
 言い返したいのに声も出せないで、締めつけられていた喉の痛みが和らいだ。

(待って)

 ふいに思い出したように思いつき、熱が引いて凍えた。
 ジョーカーが杏だとしても、この事実を知っている人はほかにもいる。
 わたしがOtoだということは“彼”も知っていた。

(速見くん)

 彼がいまになってこうして暴いてみせた可能性も十二分にあった。
 だとしたら、最悪。最悪すぎる。
 何が、心配するな、だ。
 簡単に裏切ってきたくせに。

 わたしがあんなふうに脅したから、腹いせに暴露したのかもしれない。
 それとも、先手を打ったのだろうか。
 わたしが(ジョーカー)に対してしようとしていたみたいに、暴かれる前に暴いてやろうと。
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