クズ御曹司の執着愛
忠相という男を知る夜
女将は、ほっとしたように微笑んだ。
「よかったわ。こうして二人で来てくれて……」
一拍置き、しみじみと続ける。
「忠相君ほど、いい人はいないわよ」
「……え?」
伊織は思わず声を詰まらせた。
「忠相は……そんなに、いい男じゃありませんよ」
自分でも驚くほど、言葉が尖っていた。
女将は首を横に振り、穏やかに笑う。
「そんなことないわ。あんなに誠実な人、そういないもの」
少し声を落とし、諭すように言った。
「……大事にしてもらいなさい」
伊織の表情が揺れる。
困惑と、否定しきれない何かが滲んだその顔を見て、女将は小さく息をついた。
「……やっぱりね。忠相君、誰にも言ってないのね。あのこと」
「あのこと……?」
伊織が思わず問い返す。
女将は声を潜めた。
「実はね、五年ほど前、うちの店、なくなるところだったの」
「……そうだったんですか」
「ここら辺の開発業者の圧がすごくてね。
主人も私も、正直、もう限界だったの」
一瞬、遠くを見るような目になる。
「その話をね、ぽろっと忠相君にしたの。
そしたら、彼……迷いもなく言ったのよ」
女将は、忠相の声色をなぞるように、静かに告げた。
「――“俺が何とかしますから。大丈夫ですよ”って」
「……」
伊織は、言葉を失った。
胸の奥で、これまで信じてきた“忠相像”が、音もなく崩れていく。
それは怒りでも否定でもなく、
知らなかった事実が、ただ静かに積み重なっていく感覚だった。
「私たち、知らなかったの」
女将は少し首を振り、穏やかに続けた。
「忠相君が、滝沢ホールディングスの役員だなんて。
そんなそぶり、少しも見せなかったから」
その声には、今も変わらぬ感謝が滲んでいる。
「おかげでね、店は残せたし、部分的に改装もできたの。
一時は田舎に帰ろうかって、主人も相当落ち込んでいたけれど……
今はね、二十年前より元気なくらいよ」
「……そう、だったんですか」
「忠相君には、頭が上がらないわ。でもね、
“何も返さなくていい”って言ってくれたの」
女将は少し照れたように笑う。
「……それでも、私たち、毎月少しずつ返してるのよ。
忠相君にとっては、取るに足らない金額でしょうけどね」
伊織の胸の奥で、苦々しさと戸惑いが絡まり合う。
(……もし、女将さんの言葉が本当なら)
(忠相は、誰にも言わず、この店を守ってきたということ……?)
クズ男のままでいてくれれば、軽蔑し続けられた。
そのほうが、どれだけ楽だったか。
けれど、誠実さや優しさの欠片を見てしまった自分の心が、
ゆっくりと揺らぎ始めている。
その事実が、何より苦々しかった。
女将は、明るく場を和らげるように言った。
「だから今日は、たくさん食べて飲んでいって。
明日はお休みでしょう?」
そのときだった。
背後から、聞き慣れた低い声が落ちてくる。
「ああ、そうです。俺たち二人とも、休みです」
いつの間にか、忠相が戻ってきていた。
揚げたてのとんかつが目の前に並ぶ。
衣の香ばしい匂いが立ちのぼり、伊織の箸は自然と動いた。
忠相も隣でグラスを傾けながら、同じように箸を取る。
「……さっき言っていた“理由”、説明して」
伊織は小さな声で切り出した。
忠相は一切動じず、とんかつを口に運びながら答える。
「ここではできない」
「……そう。わかった。でも、今夜中に話してくれる?」
「ああ、もちろんだ」
忠相は穏やかに微笑み、伊織のグラスにビールを注ぎ足した。
「伊織。お前はざるだろ。もっと飲め。明日は休みだ」
「……明日が休みだって、今知ったばかりなんですよ。沢口常務」
伊織は苦笑を浮かべ、皮肉を込めて返す。
自分のスケジュールさえ、
すべてこの男の采配ひとつで動いている――
その事実が、じわりと胸に残った。
とんかつ屋を後にし、忠相の運転する車は夜の街を抜けていく。
やがて辿り着いたのは、伊織も何度か訪れたことのあるマンション。
その隣に、同じ外観の建物が並んでそびえていた。
「……ここは?」
伊織は眉をひそめる。
「私、まだ帰れないの?」
忠相は何も言わずハンドルを切り、地下駐車場へ入った。
「ここは、俺の自宅マンションだ」
車を停めると、配送にせず持ち帰った分の買い物袋をトランクから出す。
それから助手席のドアを開け、手を差し出した。
「来いよ」
伊織はその手を見下ろし、静かに立ち上がった。
手は取らず、自分の足で車を降りる。
「……可愛げがないぞ」
忠相が口元を歪めて言う。
「なくて結構よ」
伊織はきっぱりと答え、背筋を伸ばした。
「よかったわ。こうして二人で来てくれて……」
一拍置き、しみじみと続ける。
「忠相君ほど、いい人はいないわよ」
「……え?」
伊織は思わず声を詰まらせた。
「忠相は……そんなに、いい男じゃありませんよ」
自分でも驚くほど、言葉が尖っていた。
女将は首を横に振り、穏やかに笑う。
「そんなことないわ。あんなに誠実な人、そういないもの」
少し声を落とし、諭すように言った。
「……大事にしてもらいなさい」
伊織の表情が揺れる。
困惑と、否定しきれない何かが滲んだその顔を見て、女将は小さく息をついた。
「……やっぱりね。忠相君、誰にも言ってないのね。あのこと」
「あのこと……?」
伊織が思わず問い返す。
女将は声を潜めた。
「実はね、五年ほど前、うちの店、なくなるところだったの」
「……そうだったんですか」
「ここら辺の開発業者の圧がすごくてね。
主人も私も、正直、もう限界だったの」
一瞬、遠くを見るような目になる。
「その話をね、ぽろっと忠相君にしたの。
そしたら、彼……迷いもなく言ったのよ」
女将は、忠相の声色をなぞるように、静かに告げた。
「――“俺が何とかしますから。大丈夫ですよ”って」
「……」
伊織は、言葉を失った。
胸の奥で、これまで信じてきた“忠相像”が、音もなく崩れていく。
それは怒りでも否定でもなく、
知らなかった事実が、ただ静かに積み重なっていく感覚だった。
「私たち、知らなかったの」
女将は少し首を振り、穏やかに続けた。
「忠相君が、滝沢ホールディングスの役員だなんて。
そんなそぶり、少しも見せなかったから」
その声には、今も変わらぬ感謝が滲んでいる。
「おかげでね、店は残せたし、部分的に改装もできたの。
一時は田舎に帰ろうかって、主人も相当落ち込んでいたけれど……
今はね、二十年前より元気なくらいよ」
「……そう、だったんですか」
「忠相君には、頭が上がらないわ。でもね、
“何も返さなくていい”って言ってくれたの」
女将は少し照れたように笑う。
「……それでも、私たち、毎月少しずつ返してるのよ。
忠相君にとっては、取るに足らない金額でしょうけどね」
伊織の胸の奥で、苦々しさと戸惑いが絡まり合う。
(……もし、女将さんの言葉が本当なら)
(忠相は、誰にも言わず、この店を守ってきたということ……?)
クズ男のままでいてくれれば、軽蔑し続けられた。
そのほうが、どれだけ楽だったか。
けれど、誠実さや優しさの欠片を見てしまった自分の心が、
ゆっくりと揺らぎ始めている。
その事実が、何より苦々しかった。
女将は、明るく場を和らげるように言った。
「だから今日は、たくさん食べて飲んでいって。
明日はお休みでしょう?」
そのときだった。
背後から、聞き慣れた低い声が落ちてくる。
「ああ、そうです。俺たち二人とも、休みです」
いつの間にか、忠相が戻ってきていた。
揚げたてのとんかつが目の前に並ぶ。
衣の香ばしい匂いが立ちのぼり、伊織の箸は自然と動いた。
忠相も隣でグラスを傾けながら、同じように箸を取る。
「……さっき言っていた“理由”、説明して」
伊織は小さな声で切り出した。
忠相は一切動じず、とんかつを口に運びながら答える。
「ここではできない」
「……そう。わかった。でも、今夜中に話してくれる?」
「ああ、もちろんだ」
忠相は穏やかに微笑み、伊織のグラスにビールを注ぎ足した。
「伊織。お前はざるだろ。もっと飲め。明日は休みだ」
「……明日が休みだって、今知ったばかりなんですよ。沢口常務」
伊織は苦笑を浮かべ、皮肉を込めて返す。
自分のスケジュールさえ、
すべてこの男の采配ひとつで動いている――
その事実が、じわりと胸に残った。
とんかつ屋を後にし、忠相の運転する車は夜の街を抜けていく。
やがて辿り着いたのは、伊織も何度か訪れたことのあるマンション。
その隣に、同じ外観の建物が並んでそびえていた。
「……ここは?」
伊織は眉をひそめる。
「私、まだ帰れないの?」
忠相は何も言わずハンドルを切り、地下駐車場へ入った。
「ここは、俺の自宅マンションだ」
車を停めると、配送にせず持ち帰った分の買い物袋をトランクから出す。
それから助手席のドアを開け、手を差し出した。
「来いよ」
伊織はその手を見下ろし、静かに立ち上がった。
手は取らず、自分の足で車を降りる。
「……可愛げがないぞ」
忠相が口元を歪めて言う。
「なくて結構よ」
伊織はきっぱりと答え、背筋を伸ばした。