クズ御曹司の執着愛
暗雲
伊織が目を覚ますと、寝室のドアの隙間から淡い明かりが漏れていた。
耳を澄ますと、低く、苛立ちを含んだ忠相の声がかすかに届く。
胸がざわつく。
伊織はそっとベッドを抜け出し、スリップの上にローブを羽織った。
足音を忍ばせ、リビングへ向かう。
「……わかった。報告ありがとう」
忠相はそう言って通話を切り、深く長い溜息を吐いた。
「忠相……?」
伊織の声に、彼は振り返り、驚いたように目を見開く。
「こんな時間に……どうした?」
心配そうに近づく伊織に、忠相はわずかに肩を落とした。
「起こしてしまったか。……すまない」
その声には、先ほどまでの苛立ちとは違う、はっきりとした申し訳なさが滲んでいた。
忠相はソファに腰を下ろし、額に手を当てたまま、しばらく黙り込む。
やがて低く息を吐き、伊織を見つめた。
「秘書から連絡があった。……少し厄介なことが起きた」
伊織は足を止め、静かに問い返す。
「……私も関係しているの?」
忠相は短くうなずき、視線を逸らした。
「……ああ。お前の名前が出た。
不快にさせる内容だ。すまない」
胸の奥が、ひやりと冷える。
その瞬間、忠相は彼女の手を取り、強く引き寄せた。
「だが、心配するな。俺が全部片づける」
「お前には、指一本触れさせない」
低く、力のこもった声だった。
伊織の不安は、その言葉に少しずつ溶けていく。
忠相は手を握ったまま、静かに告げる。
「……俺たちのことが、明後日発売の週刊誌に載る」
「……え?」
伊織は思わず息をのんだ。
「この間の佐藤絵里香と、その家族だ」
「記者に、好き放題話している」
「……どんなことを?」
伊織は無意識にミネラルウォーターをグラスに注ぎ、忠相の前に差し出す。
忠相は一口飲み、深く息を吐いた。
「伊織は、婚約者を寝取った女だと」
「大学の同級生というだけで俺に取り入った、強欲な女だ、と」
淡々と、しかし低く続ける。
「俺は女遊びの激しい男で、十五以上年下の婚約者を裏切り、
会社の利益と自分の欲望のためなら手段を選ばない冷血漢……」
「そういう、三流の記事だ」
言い終えたあと、重苦しい沈黙が落ちた。
伊織はグラスを見つめ、ふっと小さく息を吐く。
「……ふーん」
「……そんなこと、だと?」
忠相は思わず目を見開いた。
あまりにもあっさりした反応に、
先ほどまで胸を締めつけていた苛立ちが、すっとほどけていく。
「写真も撮られているんだぞ」
「いつの?」
「この間、レストランにいたときだ」
「角度を変えて、記事に都合よく撮ったらしい」
「ふーん」
伊織は、まるで他人事のように軽く笑う。
「……伊織」
「本気で言っているのか?」
忠相は顔を覗き込み、戸惑いと苛立ちを滲ませた。
「……忠相のことだから」
「もう手は打ってあるか、何か策を考えているんでしょう?」
不思議なほど落ち着いた声だった。
忠相は一瞬目を細め、彼女をじっと見つめる。
「……まあな」
短い返事の奥に、決意がにじむ。
そして、逃がさぬように腕を回したまま、低く告げた。
「数時間後に発表する」
「滝沢ホールディングスの社内報と、大塚デザインに」
「……何を?」
「俺と伊織の婚約を、正式にだ」
「……え?」
伊織は、言葉を失う。
「週刊誌に好き勝手書かせるくらいなら」
「お前が俺の婚約者だと、堂々と世に出す」
その言葉に、胸が大きく揺れた。
守る覚悟。
独占。
そして、疑いようのない愛の証明。
忠相の瞳に、迷いは一切なかった。
伊織は忠相の腕の中で、そっと顔を上げた。
「でも……どうして、こんなことになったの?」
その声には、責める響きはなかった。
ただ真実を知りたいという、静かで揺るぎない思いだけがにじんでいる。
「忠相を責めているわけじゃないの。ただ……」
一度言葉を選ぶように間を置いてから、続けた。
「あの“お見合い”って、本当にしていないんでしょう?」
忠相は一瞬眉をひそめ、すぐにまっすぐな視線を返した。
「していない。……最初からだ」
低く、重みのある声だった。
「あの女が、どうしても俺と結婚したいと言っているらしい」
「それに目をつけたのが、あの娘の父親と……社の専務だ」
伊織は小さく息を呑む。
「……滝沢会長のお考えは?」
「真兄は、最初から佐藤の話など眼中にない」
「見合いも断れ、と言ってきたくらいだ」
「滝沢会長が……?」
「ああ。真兄は最初の結婚こそ政略だったが、再婚は恋愛結婚だ」
「うん、その話は知っているわ」
「……そうなのか?」
伊織はふっと微笑んだ。
「ご結婚前、お二人がそれぞれのご自宅で暮らしていらした頃」
「私、カーテンのデザインを担当させていただいたの」
忠相の瞳が、わずかに揺れる。
思いがけない過去の縁が、静かに二人をつないだ。
伊織は首を傾げる。
「……あのお嬢さんは、どうして忠相と結婚したいって言っているの?」
忠相は肩をすくめ、苦々しく息を吐いた。
「ひとめぼれ、だとさ」
「へえ……」
伊織は思わず小さく笑った。
「彼女から見たら、忠相はおじさんかもしれないけど」
「まだ十分、“眉目秀麗な男”だものね。年上の庇護欲、ってやつかしら」
あまりに軽い口調に、忠相は目を細める。
「……お前な。自分のことだって、記事にされるんだぞ」
「うん。その覚悟はしているわ」
伊織は、静かに頷いた。
「想像よりずっと大変になる可能性もある」
「仕事を失うかもしれないし……考え出したら、きりがない」
指先を組み、いったん視線を落とす。
だが、すぐに顔を上げた。
「でも」
その続きを、忠相は一言も挟まずに待った。
耳を澄ますと、低く、苛立ちを含んだ忠相の声がかすかに届く。
胸がざわつく。
伊織はそっとベッドを抜け出し、スリップの上にローブを羽織った。
足音を忍ばせ、リビングへ向かう。
「……わかった。報告ありがとう」
忠相はそう言って通話を切り、深く長い溜息を吐いた。
「忠相……?」
伊織の声に、彼は振り返り、驚いたように目を見開く。
「こんな時間に……どうした?」
心配そうに近づく伊織に、忠相はわずかに肩を落とした。
「起こしてしまったか。……すまない」
その声には、先ほどまでの苛立ちとは違う、はっきりとした申し訳なさが滲んでいた。
忠相はソファに腰を下ろし、額に手を当てたまま、しばらく黙り込む。
やがて低く息を吐き、伊織を見つめた。
「秘書から連絡があった。……少し厄介なことが起きた」
伊織は足を止め、静かに問い返す。
「……私も関係しているの?」
忠相は短くうなずき、視線を逸らした。
「……ああ。お前の名前が出た。
不快にさせる内容だ。すまない」
胸の奥が、ひやりと冷える。
その瞬間、忠相は彼女の手を取り、強く引き寄せた。
「だが、心配するな。俺が全部片づける」
「お前には、指一本触れさせない」
低く、力のこもった声だった。
伊織の不安は、その言葉に少しずつ溶けていく。
忠相は手を握ったまま、静かに告げる。
「……俺たちのことが、明後日発売の週刊誌に載る」
「……え?」
伊織は思わず息をのんだ。
「この間の佐藤絵里香と、その家族だ」
「記者に、好き放題話している」
「……どんなことを?」
伊織は無意識にミネラルウォーターをグラスに注ぎ、忠相の前に差し出す。
忠相は一口飲み、深く息を吐いた。
「伊織は、婚約者を寝取った女だと」
「大学の同級生というだけで俺に取り入った、強欲な女だ、と」
淡々と、しかし低く続ける。
「俺は女遊びの激しい男で、十五以上年下の婚約者を裏切り、
会社の利益と自分の欲望のためなら手段を選ばない冷血漢……」
「そういう、三流の記事だ」
言い終えたあと、重苦しい沈黙が落ちた。
伊織はグラスを見つめ、ふっと小さく息を吐く。
「……ふーん」
「……そんなこと、だと?」
忠相は思わず目を見開いた。
あまりにもあっさりした反応に、
先ほどまで胸を締めつけていた苛立ちが、すっとほどけていく。
「写真も撮られているんだぞ」
「いつの?」
「この間、レストランにいたときだ」
「角度を変えて、記事に都合よく撮ったらしい」
「ふーん」
伊織は、まるで他人事のように軽く笑う。
「……伊織」
「本気で言っているのか?」
忠相は顔を覗き込み、戸惑いと苛立ちを滲ませた。
「……忠相のことだから」
「もう手は打ってあるか、何か策を考えているんでしょう?」
不思議なほど落ち着いた声だった。
忠相は一瞬目を細め、彼女をじっと見つめる。
「……まあな」
短い返事の奥に、決意がにじむ。
そして、逃がさぬように腕を回したまま、低く告げた。
「数時間後に発表する」
「滝沢ホールディングスの社内報と、大塚デザインに」
「……何を?」
「俺と伊織の婚約を、正式にだ」
「……え?」
伊織は、言葉を失う。
「週刊誌に好き勝手書かせるくらいなら」
「お前が俺の婚約者だと、堂々と世に出す」
その言葉に、胸が大きく揺れた。
守る覚悟。
独占。
そして、疑いようのない愛の証明。
忠相の瞳に、迷いは一切なかった。
伊織は忠相の腕の中で、そっと顔を上げた。
「でも……どうして、こんなことになったの?」
その声には、責める響きはなかった。
ただ真実を知りたいという、静かで揺るぎない思いだけがにじんでいる。
「忠相を責めているわけじゃないの。ただ……」
一度言葉を選ぶように間を置いてから、続けた。
「あの“お見合い”って、本当にしていないんでしょう?」
忠相は一瞬眉をひそめ、すぐにまっすぐな視線を返した。
「していない。……最初からだ」
低く、重みのある声だった。
「あの女が、どうしても俺と結婚したいと言っているらしい」
「それに目をつけたのが、あの娘の父親と……社の専務だ」
伊織は小さく息を呑む。
「……滝沢会長のお考えは?」
「真兄は、最初から佐藤の話など眼中にない」
「見合いも断れ、と言ってきたくらいだ」
「滝沢会長が……?」
「ああ。真兄は最初の結婚こそ政略だったが、再婚は恋愛結婚だ」
「うん、その話は知っているわ」
「……そうなのか?」
伊織はふっと微笑んだ。
「ご結婚前、お二人がそれぞれのご自宅で暮らしていらした頃」
「私、カーテンのデザインを担当させていただいたの」
忠相の瞳が、わずかに揺れる。
思いがけない過去の縁が、静かに二人をつないだ。
伊織は首を傾げる。
「……あのお嬢さんは、どうして忠相と結婚したいって言っているの?」
忠相は肩をすくめ、苦々しく息を吐いた。
「ひとめぼれ、だとさ」
「へえ……」
伊織は思わず小さく笑った。
「彼女から見たら、忠相はおじさんかもしれないけど」
「まだ十分、“眉目秀麗な男”だものね。年上の庇護欲、ってやつかしら」
あまりに軽い口調に、忠相は目を細める。
「……お前な。自分のことだって、記事にされるんだぞ」
「うん。その覚悟はしているわ」
伊織は、静かに頷いた。
「想像よりずっと大変になる可能性もある」
「仕事を失うかもしれないし……考え出したら、きりがない」
指先を組み、いったん視線を落とす。
だが、すぐに顔を上げた。
「でも」
その続きを、忠相は一言も挟まずに待った。