クズ御曹司の執着愛

すれ違う心

週末を外出せずに過ごした二人は、月曜の朝、会社のエントランスへと車から降り立った。
自動ドアを抜けた伊織は、自然と忠相の隣を歩く。
大きな背に守られながら進む一歩一歩に、確かな安心が宿っていた。

すでに数人の記者が張りついている。

「沢口常務! 成島専務との確執は事実ですか?」
「森田さん! 本当に三角関係だったんですか?」

一斉に飛び交う声と、鋭いフラッシュ。
伊織は思わず足を止めかけた。

その瞬間、忠相の手が背に触れ、静かに支えた。

「無視しろ。答える必要はない」

低く落ち着いた声。
それだけで、心臓の早鐘が少しずつ鎮まっていく。
――けれど。

(私は……この人のことを、どう思っているのだろう)

胸の奥に、冷たいものが走った。

事件の恐怖から救ってくれたのは、たしかに忠相だった。
同じ家に暮らし、同じ時間を過ごすうちに、心も体も少しずつ落ち着いていった。

けれど、それは「愛」と呼べるものなのだろうか。
それともただ、「守られている安心」に身を委ねているだけなのではないか。

エントランスを抜け、ようやく人目から逃れた瞬間、伊織はそっと胸に手を当てた。
外の視線とフラッシュは、想像以上に重かった。

「……大丈夫か?」

忠相が低く囁く。

「ええ……」

微笑もうとしたが、唇がわずかに震える。

(私、この人と未来を歩んでいいのだろうか……)

頭の片隅に、消えない問いが浮かぶ。

婚約者という立場でさえ、これほど重い。
もし入籍すれば、その責任はさらに大きくなるのだろう。

問いは答えを見つけられないまま、胸の奥に沈殿していく。
だからこそ、笑顔を向けるたびに、どこかで嘘をついているような気がして怖かった。

伊織はその感情に名前をつけられないまま、
忠相と並んで、静かに社内へと歩みを進めた。


「ご婚約、おめでとうございます!」
「本当にお似合いですね」

一斉にかけられる祝福の言葉と拍手。
張り詰めていた伊織の肩から、ふっと力が抜けた。
(……よかった)

敵意や探るような視線を覚悟していた分、その温かな雰囲気は確かに胸に沁みた。

けれども、

笑顔で応えながらも、胸の奥に小さな痛みが広がっていく。
息が浅くなるのを、誰にも気づかれないように必死で抑えた。

(……苦しい)

理由はわからない。
ただ、祝福されればされるほど、逃げ場がなくなっていく感覚だけがあった。

いっそ、これは仕事なのだと思えたらよかった。
役割としての婚約者、責任として隣に立つ存在。
そう割り切れたなら、こんなふうに心が揺れることもなかったのかもしれない。

自分の気持ちが、わからない。
愛なのか、安堵なのか、それとも依存なのか――答えは見えないまま、不安と焦燥だけが募っていく。

だからこそ、伊織はその違和感を打ち消すように、仕事へと意識を沈めていく。

考えなければ、揺れずに済む。
役割に没頭している間だけは、自分の心と向き合わずにいられる。

そうして伊織は、知らず知らずのうちに、
仕事の中へ、深く深く、潜り込んでいった。



忠相は、伊織の変化に気づいていた。

忠相は執務室の窓際に立ち、夜の街を見下ろしていた。
ネクタイを緩める気にもなれず、ただ立ち尽くしている。

(どうすればいい?)

仕事をしているときの伊織は、以前にも増して冴えている。
判断は的確で、集中力も高く、周囲からの評価も申し分ない。
――だが、それ以外の時間になると、彼女はどこか遠くへ行ってしまう。

二人で過ごす休日。
同じ空間にいながら、伊織の視線は彼を通り越し、何か別の場所を見ている。
言葉を交わしていても、返事は少し遅れ、噛み合わない。

抱いても、同じだった。

身体は確かに腕の中にある。
吐息も、熱も、すべて受け止めているはずなのに――
彼女の心だけが、そこにいない。

その事実が、忠相の胸にじわじわと苛立ちを溜めていった。

(俺は、何をしている?)

守っている。
支えている。
欲しいものは与えている。
それでも、伊織は満たされていない。

――いや、満たされているのかもしれない。
ただ、それが「俺」ではない何かで。

忠相は自分でも驚くほど、短気になっているのを感じていた。
些細な沈黙に苛立ち、伊織のぼんやりした表情に、理由のわからない怒りが湧く。

(俺のそばにいるはずなのに)

手に入れたはずの存在が、すり抜けていく。

忠相は気づいていた。
この苛立ちは、支配欲でも独占欲でもない。

――恐怖だ。

伊織の心が、自分の知らない場所へ行ってしまうことへの、
どうしようもない恐れだった。

(失いたくない)

その一点だけが、暴走していた。

忠相は、椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
深く、長い息を吐く。




美咲は、二人の微妙なズレに気づいていた。

言葉にすれば些細な違和感だ。
伊織は以前と変わらず穏やかで、仕事も完璧にこなしている。
忠相もまた、常務として申し分ない振る舞いを崩してはいない。

それでも――
二人の間に流れる空気が、どこか噛み合っていなかった。

伊織は笑っているのに、どこか浮いている。
忠相は寄り添っているのに、距離が縮まらない。

美咲には、それがはっきりと見えていた。
美咲は龍之介に相談し、龍之介は二人のために真樹へある提案をすることにした。
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