クズ御曹司の執着愛
思いがけない来訪者
コンシェルジェからの内線が入ったのは、翌日の昼下がりだった。
『伊織様。沢口雪江様と、お連れの方がお見えです。ただいまエレベーターにお乗りになりました。このことを伊織様にお伝えするようにと仰せつかっております』
一瞬、耳鳴りがした。
「……はい。ありがとうございました」
伊織はそう答え、静かに受話器を置いた。
どうしよう。
心臓が一拍、遅れて大きく脈を打つ。
忠相はいない。出張中だ。
しかも今日は、在宅で書類を整えるつもりで、最低限の身支度しかしていない。
(お化粧も、していない……)
伊織は髪を軽く整え、口紅だけを指でなじませた。
それからクローゼットを開き、忠相が選んでくれたカジュアルなワンピースに袖を通す。
インターホンが鳴った。
伊織は深く一度だけ息を吸い、玄関へ向かった。
扉を開けると、そこに立っていたのは、輝くばかりのオーラを纏った、老婦人と呼ぶにはあまりにも美しい女性だった。
その半歩後ろには、小柄で白髪の女性が静かに控えている。
「森田さん、はじめまして」
澄んだ声で、女性は微笑んだ。
「忠相の母、雪江です。
こちらは、わが家の家政婦の佐伯光子さん」
一瞬の間も、無駄がない。
「突然お邪魔してごめんなさい。
少し、お時間をいただいてもよろしいかしら?」
伊織は胸の奥に小さな波立ちを覚えながらも、すぐに頷いた。
「あ、はい。もちろんです。どうぞ……おあがりください」
そう言って身体を引くと、雪江はわずかに目を細め、満足そうとも取れる微笑を浮かべた。
伊織はそう悟りながら、二人を室内へと迎え入れた。
「今、お茶を——」
伊織が立ち上がりかけた、その瞬間だった。
「いいのよ」
雪江がやわらかく、しかし迷いのない声で制した。
「あなたには、座っていてほしいの」
そして、振り返って言う。
「光子さん。お茶をお願い」
「大奥様、かしこまりました」
佐伯光子は一礼すると、ためらいもなくキッチンへと入っていった。
まるで、この家の間取りも動線も、すでに身体に染みついているかのようだった。
雪江はソファに腰を下ろし、伊織を見て微笑む。
「おいしいケーキを買ってきたの。甘いものはお好きでしょう?」
「……はい。ありがとうございます」
相手のペースに巻き込まれていることは、伊織自身が一番よくわかっていた。
それでも、流れに逆らわず、ソファに腰かけた雪江の正面、向かいの席に置かれたダイニングチェアに、静かに腰を下ろす。
「ご挨拶が遅くなりましたが……森田伊織と申します。はじめまして」
「ええ。知っていますよ」
雪江は、にっこりと笑った。
「忠相から聞いていますし、こちらでも調べさせていただきました」
胸の奥が、ひくりと揺れる。
「……そうですか」
伊織は、意図を測りかねながらも、動揺を表に出すまいと表情を整えた。
それを見て取ったのか、雪江は声の調子を少しだけ和らげる。
「心配しなくて大丈夫よ。身元調査なんて、ただの通過儀礼みたいなもの」
「……はい?」
「沢口の家に入るということは、それなりのお付き合いも増えるということなの」
淡々と、しかし逃げ場を与えない口調だった。
「忠相には兄が二人います。お兄さんたちのお嫁さん、それぞれのご実家とも関係が続いているの。
あなた一人の問題ではないのよ」
伊織は黙って聞いていた。
「普通のご家庭のお嬢さんだからといって、差別しているわけではありません」
雪江は穏やかに微笑む。
「みんなに、安心して受け入れてもらうため。
そのために必要なことなの。だから——そんなに構えなくていいのよ」
そのときだった。
光子が、お盆を手に戻ってきた。
ケーキの皿、紅茶のティーポット、ソーサーに置かれたカップ。
テーブルに並べながら、光子はちらりと雪江を見て言った。
「大奥様。忠相坊ちゃまの婚約者でいらっしゃる方に、いきなりそんなにまくしたてなくても、よろしいんじゃありませんか」
その物言いに、伊織は思わず目を見開く。
——言うんだ、この人。
だが雪江は、怒るどころか、声を立てて笑った。
「ふふ……光子さんはね、私が沢口に嫁ぐ前から、この家にいるの」
どこか誇らしげに続ける。
「だから、家の者はみんな“光子さん”って呼ぶのよ」
「大奥様、私はキッチンに居りますので、何かございましたらお申し付けください」
光子はそう言ってから、伊織に向き直った。
「森田様。忠相坊ちゃまの好物をお持ちしましたので、少しキッチンをお借りいたしますね」
その声音には、遠慮も確認もなかった。
「……はい。わかりました」
伊織は、光子の堂々とした態度に一瞬気圧されながらも、そう答えた。
光子がキッチンへ消えるのを見届けてから、雪江がふっと笑う。
「光子さんはね、うちの息子たちのおむつ替えもしてきた人なの」
何気ない口調で、しかし含みのある言い方だった。
「だから、忠相の弱みを知りたければ、いつでも聞いたらいいわよ」
「……そうなんですね」
伊織は驚きを隠しきれないまま、それでも努めて明るく応じた。
「ねえ」
雪江の視線が、ふとダイニングテーブルへ落ちる。
「あれ」
そこに置かれていた一枚の紙——婚姻届。
「あなたの決心は、ついたの?」
「はい。今日、記入する予定でした」
「……“でした”?」
雪江の声が、わずかに低くなる。
「心変わりしたの?」
「いいえ——」
伊織は、言葉に詰まった。
頭の中で答えははっきりしている。
それでも、この場でどう言葉にすればいいのか、迷いが生じる。
その一瞬の沈黙を、雪江は見逃さなかった。
「私がここに来たことで」
静かに、しかし逃げ場を塞ぐように問いかける。
「あなたの気持ちが、変わってしまったの?」
紅茶の湯気が、二人の間をゆっくりと漂っていた。
伊織は、膝の上でそっと拳を握りしめる。
「……私が、反対すると思っているの?」
雪江は、責めるでもなく、静かにそう尋ねた。
「……反対されるかもしれないとは、思っていました」
伊織は視線を落としたまま、言葉を選ぶ。
「私では……忠相さんに、釣り合わないと」
雪江は、ふっと息をつき、先ほどよりも柔らかな声で言った。
「そうね。そう思うのは……無理もないかもしれないわ」
その言い方が、かえって胸に刺さる。
伊織は、思わず肩を落とし、うなだれた。
やはり、そうなのだ。
自分が感じてきた違和感も、不安も、
否定されることなく、肯定された形で突きつけられる。
紅茶の香りだけが、変わらずそこにあった。
『伊織様。沢口雪江様と、お連れの方がお見えです。ただいまエレベーターにお乗りになりました。このことを伊織様にお伝えするようにと仰せつかっております』
一瞬、耳鳴りがした。
「……はい。ありがとうございました」
伊織はそう答え、静かに受話器を置いた。
どうしよう。
心臓が一拍、遅れて大きく脈を打つ。
忠相はいない。出張中だ。
しかも今日は、在宅で書類を整えるつもりで、最低限の身支度しかしていない。
(お化粧も、していない……)
伊織は髪を軽く整え、口紅だけを指でなじませた。
それからクローゼットを開き、忠相が選んでくれたカジュアルなワンピースに袖を通す。
インターホンが鳴った。
伊織は深く一度だけ息を吸い、玄関へ向かった。
扉を開けると、そこに立っていたのは、輝くばかりのオーラを纏った、老婦人と呼ぶにはあまりにも美しい女性だった。
その半歩後ろには、小柄で白髪の女性が静かに控えている。
「森田さん、はじめまして」
澄んだ声で、女性は微笑んだ。
「忠相の母、雪江です。
こちらは、わが家の家政婦の佐伯光子さん」
一瞬の間も、無駄がない。
「突然お邪魔してごめんなさい。
少し、お時間をいただいてもよろしいかしら?」
伊織は胸の奥に小さな波立ちを覚えながらも、すぐに頷いた。
「あ、はい。もちろんです。どうぞ……おあがりください」
そう言って身体を引くと、雪江はわずかに目を細め、満足そうとも取れる微笑を浮かべた。
伊織はそう悟りながら、二人を室内へと迎え入れた。
「今、お茶を——」
伊織が立ち上がりかけた、その瞬間だった。
「いいのよ」
雪江がやわらかく、しかし迷いのない声で制した。
「あなたには、座っていてほしいの」
そして、振り返って言う。
「光子さん。お茶をお願い」
「大奥様、かしこまりました」
佐伯光子は一礼すると、ためらいもなくキッチンへと入っていった。
まるで、この家の間取りも動線も、すでに身体に染みついているかのようだった。
雪江はソファに腰を下ろし、伊織を見て微笑む。
「おいしいケーキを買ってきたの。甘いものはお好きでしょう?」
「……はい。ありがとうございます」
相手のペースに巻き込まれていることは、伊織自身が一番よくわかっていた。
それでも、流れに逆らわず、ソファに腰かけた雪江の正面、向かいの席に置かれたダイニングチェアに、静かに腰を下ろす。
「ご挨拶が遅くなりましたが……森田伊織と申します。はじめまして」
「ええ。知っていますよ」
雪江は、にっこりと笑った。
「忠相から聞いていますし、こちらでも調べさせていただきました」
胸の奥が、ひくりと揺れる。
「……そうですか」
伊織は、意図を測りかねながらも、動揺を表に出すまいと表情を整えた。
それを見て取ったのか、雪江は声の調子を少しだけ和らげる。
「心配しなくて大丈夫よ。身元調査なんて、ただの通過儀礼みたいなもの」
「……はい?」
「沢口の家に入るということは、それなりのお付き合いも増えるということなの」
淡々と、しかし逃げ場を与えない口調だった。
「忠相には兄が二人います。お兄さんたちのお嫁さん、それぞれのご実家とも関係が続いているの。
あなた一人の問題ではないのよ」
伊織は黙って聞いていた。
「普通のご家庭のお嬢さんだからといって、差別しているわけではありません」
雪江は穏やかに微笑む。
「みんなに、安心して受け入れてもらうため。
そのために必要なことなの。だから——そんなに構えなくていいのよ」
そのときだった。
光子が、お盆を手に戻ってきた。
ケーキの皿、紅茶のティーポット、ソーサーに置かれたカップ。
テーブルに並べながら、光子はちらりと雪江を見て言った。
「大奥様。忠相坊ちゃまの婚約者でいらっしゃる方に、いきなりそんなにまくしたてなくても、よろしいんじゃありませんか」
その物言いに、伊織は思わず目を見開く。
——言うんだ、この人。
だが雪江は、怒るどころか、声を立てて笑った。
「ふふ……光子さんはね、私が沢口に嫁ぐ前から、この家にいるの」
どこか誇らしげに続ける。
「だから、家の者はみんな“光子さん”って呼ぶのよ」
「大奥様、私はキッチンに居りますので、何かございましたらお申し付けください」
光子はそう言ってから、伊織に向き直った。
「森田様。忠相坊ちゃまの好物をお持ちしましたので、少しキッチンをお借りいたしますね」
その声音には、遠慮も確認もなかった。
「……はい。わかりました」
伊織は、光子の堂々とした態度に一瞬気圧されながらも、そう答えた。
光子がキッチンへ消えるのを見届けてから、雪江がふっと笑う。
「光子さんはね、うちの息子たちのおむつ替えもしてきた人なの」
何気ない口調で、しかし含みのある言い方だった。
「だから、忠相の弱みを知りたければ、いつでも聞いたらいいわよ」
「……そうなんですね」
伊織は驚きを隠しきれないまま、それでも努めて明るく応じた。
「ねえ」
雪江の視線が、ふとダイニングテーブルへ落ちる。
「あれ」
そこに置かれていた一枚の紙——婚姻届。
「あなたの決心は、ついたの?」
「はい。今日、記入する予定でした」
「……“でした”?」
雪江の声が、わずかに低くなる。
「心変わりしたの?」
「いいえ——」
伊織は、言葉に詰まった。
頭の中で答えははっきりしている。
それでも、この場でどう言葉にすればいいのか、迷いが生じる。
その一瞬の沈黙を、雪江は見逃さなかった。
「私がここに来たことで」
静かに、しかし逃げ場を塞ぐように問いかける。
「あなたの気持ちが、変わってしまったの?」
紅茶の湯気が、二人の間をゆっくりと漂っていた。
伊織は、膝の上でそっと拳を握りしめる。
「……私が、反対すると思っているの?」
雪江は、責めるでもなく、静かにそう尋ねた。
「……反対されるかもしれないとは、思っていました」
伊織は視線を落としたまま、言葉を選ぶ。
「私では……忠相さんに、釣り合わないと」
雪江は、ふっと息をつき、先ほどよりも柔らかな声で言った。
「そうね。そう思うのは……無理もないかもしれないわ」
その言い方が、かえって胸に刺さる。
伊織は、思わず肩を落とし、うなだれた。
やはり、そうなのだ。
自分が感じてきた違和感も、不安も、
否定されることなく、肯定された形で突きつけられる。
紅茶の香りだけが、変わらずそこにあった。