その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜

恋人じゃないから。

四月の終わり。
年度が落ち着いた頃、新しい異動者が配属された。

「今日からお世話になります。佐々木 奈々です。よろしくお願いします」

初々しい挨拶に、課内の空気が少し和やかになる。
愛嬌のある笑顔と丁寧な受け答えで、奈々はすぐに馴染んだ。

「教育係、橘くんお願いできるかな」

上司の挙げた名前に、詩乃の胸が小さく揺れる。

「……はい」

湊が自然に応じる様子を、詩乃は少し離れた席から見つめていた。

(……そっか、橘くんが教えるんだ)

もちろん、先輩として当然のこと。
でも──

「橘さん、ここ合ってますか?」

「うん、あとはこの計算だけちょっと」

「わ、気づかなかった……さすがです」

笑い合う声が耳に入る。
斜め向かいの湊は、普段の無愛想さはなく、柔らかく奈々に接していた。
(……やさしいな)
自分以外に優しく笑う湊に、胸の奥がざわつく。
資料の文字が頭に入らない。
仕事終わり、奈々が嬉しそうに言った。

「今日もありがとうございました。明日も少し付き合ってもらえますか?」

「いいですよ。朝、早めに来れますか?」

「はいっ!」

その会話が、詩乃の脳裏に焼きついた。

***

電車の中、スマホが震える。
橘 湊
《今日、俺の家きませんか?》
短いメッセージなのに、心がざわつく。
《いいよ》
“恋人”じゃない関係の合図だとわかっているのに。
「……何でこんなにモヤモヤするの?」

独りごとが、スマホの画面に吸い込まれていった。
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