その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜

「もう、遠慮なんてしませんから。」

湊が出張から帰ってくる日の夜、スマホが震えた。
──《今、駅。会えますか》
出張から戻ったばかりの湊からだった。
(まだ会うつもりなんて、なかったのに)
それでも「うん」と返してしまうのは、きっともう、好きがにじみ出てしまっている証拠だ。
湊の部屋に着いたとき、彼は変わらない笑顔で迎えてくれた。
けれど、詩乃はどこかぎこちないまま、上着を脱いでソファに腰を下ろした。

「……詩乃さん、なんか変じゃないですか?」

穏やかだった湊の声が、ふと真剣さを含む。

「俺、何かした?」

その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
(なにも悪くないよ、湊くんは)
ただ、わたしの気持ちが、勝手に進んでしまっただけだ。
目を伏せたまま、ぎゅっと拳を握る。部屋の静けさが、やけに耳に沁みた。
少しだけ間を置いて、詩乃はぽつりと言った。
「……この関係、終わりにしよう」

喉の奥が焼けるように痛んだ。でも、これ以上言葉を濁すことはできなかった。

「……えっ…どうして、ですか?」

湊の声が、明らかに戸惑いを含んでいた。

「今なら……まだ引き返せると思うの。これ以上、この関係を続けたら……もっと湊くんに依存して、離れられなくなる。私は、もう、誰かに期待も、依存もしたくない…」

「…詩乃さんは、もう、俺がいなくてもいいってことですか…?」

「っ」

一瞬、答えにつまる。
でもーーーー

「今なら…湊くんがいない未来を歩めると、思う…」

最後の言葉が震えた。
ほんとうは、そんなことないとわかっていながら。
けれど、
奈々の笑顔。湊の楽しそうな横顔。
何度も何度も胸を刺してきたその光景が、頭に浮かぶたび、
脳裏に、あの日他の女の子と交わる圭介を思い出す。その姿を湊くんに重ねてしまうたび、心がぐちゃぐちゃになる。
怖い。だったら、離れたい。
もう、あんな思いはしたくない。

「だから……ただの会社の同僚に戻ろう? ね、湊くん」

そう言いながら、心はすでに引きちぎれそうだった。
けれど、次の瞬間。

「……絶対、嫌です」

空気が、ぴしりと張り詰めた。
それは、今まで聞いたことのない、低くて強い声だった。

「詩乃さん、そんな言い方……ズルい。俺にどれだけ我慢させたと思ってるんですか」

「湊くん……?」

「俺……ずっと、詩乃さんが欲しかった。でも、心が手に入らないなら意味がないって思って……我慢してきた。傷つけないように、壊さないように」

湊の手が、詩乃の肩をつかむ。その手は、ほんの少し震えていた。

「もう、とっくに俺は…詩乃さんがいない未来なんて、考えられないのに…」

「詩乃さんこそ、俺に期待させて、依存させて、離れられなくしたくせに…」

「ーーっ」

「でも、もう無理です。俺ばっか我慢して……それで、結局、“終わりにしよう”って?それは……あんまりです」

湊の瞳が、熱を帯びてまっすぐ射抜いてくる。その真剣さに、呼吸が浅くなった。

「我慢するの、やめます。遠慮も、もうしません」

呟くような声。だけどその奥には、決意が滲んでいた。
そのまま唇が触れて、何度も、深く、重ねられていく。

「あ、待っ……湊く……っ」

抵抗を込めた声は、唇の熱にかき消された。
強引で、でもどこか震えるほど切実な熱。それが、ただの衝動じゃないことは、すぐにわかってしまった。

「……身体だけでも、俺なしじゃ生きられないくらいにしてやる」

耳元で囁かれた言葉は、甘くて、苦くて、痛いほど嬉しい。
(……ああ、わたし……)
心のどこかで望んでいた。ずっと。自分だけを、強く、求めてくれることを。

「……湊く、っ」

「何も考えないで。今は、俺だけを感じてて」

唇がまた重なって、指先が肌に触れる。
すべてを包み込むような愛しさと執着の熱に、理性は静かに崩れていった。
このまま、終わらせるつもりだった。
でも。
彼の「欲しい」という気持ちを、わたしはなによりも、待っていたのかもしれない。
壊れるのが怖くて、逃げようとしただけで。
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